2020年9月19日土曜日

2020/9/19 信仰生活の意義②

 み言を信じることが復帰の条件)
それでは、「神様を信じる」とはどういうことでしょうか。本来、アダムとエバは神様の子女として創造されました。彼らが成長し、完成して、愛の実体となったとき、神様の創造理想が成就するようになっていました。しかし、神様の創造理想は実現しませんでした。アダムとエバが神様から与えられた「取って食べてはならない」とのみ言を守ることができずに堕落してしまったからです。アダムとエバは「取って食べると、きっと死ぬ」(創2・17)という神様のみ言よりも、「決して死ぬことはない」(創3・4)という天使長ルーシェルの言葉のほうを信じてしまったわけです。その結果、人間はみ言を不信した立場に立ってしまいました。こうして堕落が起こりました。人間は堕落して、本来あるべき位置よりももっと下に堕ちてしまったのです。元の位置に戻るためには、堕落と反対の経路をたどらなければなりません。これが復帰の道です。「み言」を不信して堕落したので、み言を信じる「信仰」という、「不信」の反対の道を通過しなければならないのです。み言というのは、生きとし生ける全てのものの命です。

~ 天一国時代の信仰生活より ~

所長視点)
勝利された真の父母のみ言だからこそ、一日の出発、節目の時間、行き詰まったとき、努力が実ったときなど、み言を読み返していくことで、神様との関係性が築かれていきます。ついでにみ言に立ち返るのではなく、み言を中心とした生活にチャレンジしてみましょう

2020年9月17日木曜日

2020/9/17 信仰生活の意義①

 失った神様との関係を復帰するために)
本来、「信仰」というものは、私たち人間には必要ありませんでした。皆さんの中で、自分の親を信仰している人はいますか。「親は自分の親で、自分はその子供だ」というのは事実ですから、それを信じるというのは、信仰でも何でもありません。当たり前のことです。「天の父母様(神様)がいらっしゃる。神様は私たちの親である」ということは、本然の人間にとって当たり前のことだったのです。ところが、堕落することで神様との関係が切れ、人間は神様が分からなくなってしまい、神様とサタンの中間位置に立ってしまいました。ですから、「神様を信じる」「神様を信仰する」という道を通してしか、神様との関係を修復することができなくなったわけです。そのために、「信仰」が必要になりました。

~ 天一国時代の信仰生活講座 ~

所長視点)
「人間の父母になりたかった」これが神様の願いです。ご父母様の生涯かけて復帰されてきました。そうしていま天一国時代をむかえて「家庭に神様を父母として迎える生活」が始まっています。その中心が家庭祭壇です

2020年9月8日火曜日

2020/9/8 真の愛の共鳴圏

人間の貴重な価値を満点にするのは、真の愛と一体となるときに可能です。心身一体とは、良心(本心)と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の振動数が同じとき、一つをたたけば、その反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をたたけば、良心(本心)が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには教育が必要ありません。その真ん中に入っていけば、教えるべきすべてのことが分かるようになっているのです。 (天聖経4・1・2・35)

所長視点)
真の愛の共鳴圏の時代が来ました。いま宇宙全体に真の愛の波動が満ちています。あとは私の本心を真の愛の波動に共鳴させれば、すべての問題が解決します。自分の価値が思う存分発揮されます

2020年9月6日日曜日

2020/9/6 真の愛のスイッチ

何よりもまず神様を知らなければなりません。間違いなく神様がいらっしゃることを知らなければなりません。その次には、霊界がどのようなところなのかをはっきりと知らなければなりません。霊界を知らなければ、神様も分かりません。アダムとエバが堕落する時に真の愛を失ってしまったので、永生がなくなったのです。ですから、神様、霊界、そして永生が問題です。人間は永遠に生きられるのです。神様が永遠に生きていらっしゃるので、その息子、娘も、当然そのように生きなければなりません。(天聖経7・3)

所長視点)
真の愛を知るためには「永生」を知る必要があります。「永生」を知るということは「死」と向かい合うことです。「死」を受け入れ、今を生きることで真の愛のスイッチが入るようになります

2020年9月5日土曜日

2020/9/5 最も貴重な師

すべて人間は、それぞれ自分の中に最も貴重な師を、一生の間もち続けています。それにもかかわらず、その師を不当に待過し、踏みつけて濫用するのです。その師が正に、人間の良心(本心)です。私たちの良心(本心)は常に、私たち自身に助けになるように話し掛け、私たちを真の愛と連結してあげようとします。私たちの良心(本心)は父母のように、私たちが善で、非利己的な人になるように促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれます。しかし、私たちには良心(本心)の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が正に肉体です。(天聖経4・1・2・30)

所長視点)
本心の声が聞こえてくるようになると、本心の声に従えない声が聞こえてきます。肉体が主体になることでサタンが私の心を主管してきます。それが邪心です

2020年9月4日金曜日

2020/9/4 真の愛による自己主管

皆さんは、体と心を統一しなければなりません。これは歴史的な叫びです。福音の中の福音です。このことが実現されなければ、愛もすべて無駄になるのです。人間の定義を論じることができる、論理的起源の基盤がないというのです。その起源の基盤がない論法というものは、現実と関係ありません。ですから、「私」の心と体において、「完全に統一された」と言えるようにならなければなりません。神様は、「真の愛を通して心と体を一つにしなさい」と言われます。神様御自身の体と心が一つになっているのは、互いにために生きる愛をもっているからです。体は心のために生き、心は体のために自分以上のものを投入しようとするので、永存できるのです。投入し、さらに投入できるので、理論的な永生の論理が出てくるのです
(真の父母経11・1・1・17)

所長視点)
心と体を一つにするには、真の愛しかありません。真の愛は私の本心の第二の神様が持ってます。私の心を磨き、堕落性に気づき、本心がより発動しやすい心の状態を作ることで真の愛が心に満ち溢れ、身体を通じて生活圏を主管することができます

2020年9月3日木曜日

2020/9/3 復帰摂理歴史

私たちは、盲目的な宗教生活をしてはいけません。神様は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、その公式を知らなければなりません。このような公式的な法度を教えてくれる所が統一教会であり、このような公式的な法度が入っているのが統一教会の教えです。統一教会の教えは、過去から現在まで、復帰摂理歴史がどのようにつながってきたかを、はっきりと教えてくれています。これが統一教会の教えの中で最も重要な内容です。
(真の父母経 11・1・1・10)

所長視点)
宗教の使命は、神様と霊界を教えることです。そして神様が人類を導いてきた復帰摂理歴史を教えることです。いまも復帰摂理歴史の途上にあります。原理原則で真なる私を探していきましょう

2020年9月1日火曜日

2020/9/2 真の愛の境地

真を求めていくならば、絶対的に心のために生きる体にならなければなりません。心と体が一つになって、神様を中心として90度で天地に連結されれば、東西南北、上下、どこに行っても分かるのです。自動的に霊界と通じ、学ばなくてもすべて分かるのです。
先生はどのようにして天地の秘密をすべて知ったのでしょうか。その境地に入ったので、すべて分かるようになったのです。真の愛を中心として体と心が共鳴する境地に入ってみると、すべて見えたというのです。神様も見え、天上世界も見え、歴史も見え、すべて見えるのです。真の愛を通して関係を結び、縁を結んで、理想的な生活をすることのできる環境的要件が本来の神様の創造理想の原則だったので、その境地に入ってみると、通じない所がないのです。霊界の先祖も、呼べばさっと出てきて会い、何でも尋ねることができるのです。(天聖経4・1・2・28)

所長視点)
真の愛と心を共鳴させることができるようになれば、全ての問題は解決していく…ということです。問題の根底にあるものは、体が主体になっている。心が真の愛と共鳴していない。それゆえに問題と問題が複雑に絡み合ってしまっているのです。

2020年8月31日月曜日

2020/8/31 心の価値

皆さんの心は父母より先であり、師より先です。その心は永遠に、「私」と共に一つになっています。しかし、父母は永遠に一つではなく、師も永遠に一つではなく、主人も永遠に一つではありません。ですから、心に偉大な価値がというのです。そのため、父母様に尋ねる前に、心と相談しなければなりません。そうすれば尋ねる必要がないのです。それは神様と直結しているので、共鳴圏に入ることによって、体が願うことについて尋ねれば、周波が同じなので答えが来るのです。「あす、これこれこのような人に会いに行くのだが、どうしようか」と心に向かって尋ねてみれば、心は喜んだり、嫌がったりするというのです。行って会うのが良いのか悪いのか、心が分かります。嫌ならば、心が縮こまってしまうのです。 (天聖経4・1・2・27)

所長視点)
心に価値を感じている人は心を大切にします。大切にしている人は心を優先する生活をします。生活で困ったことがあれば、心と相談します。そうすると心の反応で答えを悟ることができるようになります。それが心を主体にする生活、神様を中心とする生活です

2020年8月30日日曜日

2020/8/30 心に対して祈る

祈るときは、心に対して祈らなければなりません。それほど心が願う通りにしたでしょうか。心を後回しにしていくら神様を呼び求めても、通じません。心と一つになってこそ、通じるようになっている神様です。そのため、心の命令を中心として考えなければなりません。いつでも心を見つめて尋ねなさいというのです。父母に尋ねる代わりに永遠の本心に尋ねてみなさいというのです。
師、父母、主人と別れることはできますが、心とは別れることができません。その三大主体に侍って暮らす心を無視するのは、途方もない罪です。父母を無視することであり、師を無視することであり、宇宙の主人である神様を無視することです(天聖経4・1・2・22)

所長視点)
本心は第二の神様です。祈ることも、自分が生活することも、判断することも、心を中心とすることが何よりも重要です。忙しいといって、心が何を感じているのか、尋ねることをせずに生活に追われることは神様を無視することでもあります。そこに天運は訪れないのです

2020年8月27日木曜日

2020/8/27 縦的と横的

人は体と心の二重になっていますが、心は縦的な面を身代わりしており、体は横的な面を身代わりしています。仏教では、参禅を通して、心とは何かを研究してきましたが、いまだに心が何か分からずにいます。心は縦的な「私」です。また体は横的な「私」です。ですから、横的な私と縦的な私が統一される場で、私という人格が完成するのです。何を中心としてこの縦的なものと横的なものが統一されるのでしょうか。共鳴できる本質を通して一つになる所において、完成を論じることができます。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。ただ、神様の真の愛によってのみ共鳴するのです。
(天聖経4・1・2・9)

所長視点)
縦的な世界というのは、見えない世界、霊界を現しています。横的な世界は見える世界、地上界です。霊界に存在している心が、神様の真の愛によって共鳴する、その感動でもって人生を生きれるようになることが、私の責任分担であり、人格を育むということになります

2020年8月26日水曜日

2020/8/26 体がプラスに

心と体を見れば、心は主体であり、体は対象です。この二つが闘うのですが、なぜ闘うようになったのですか。体がプラスになったからです。主体である心の前に、体が永遠な対象にならなければならないのですが、これがもう一つの主体になりました。それが堕落です。 (天聖経4・1・2・4)

所長視点)
堕落によって体が主体になった、という意味は、「本心の衝動」が「生活の事情」に引きずられるようになったということです。「生活の事情」とは、何を食べようか何を着ようか思いわずらうことであり、人間関係や出来事に対して思いわずらうことです。その状態では幸せをつかむことはできません。

2020年8月21日金曜日

2020/8/21 血の代価

先生は、神様を愛し、世界を愛し、人類を愛しました。解放直後に、先生を囚人として銃殺しようとした恩讐までも愛しました。彼の子女が飢えている時、背広から下着まですべて売って彼にあげたあと、何もない中で二週間生活したこともあります。そのときは、着るものがなくて外に出ることができませんでした。それは、ある手段としてそのようにしたのではなく、心からの思いでそのようにしたのです。先生の息子、娘のために、涙の祈りをしたことがありません。涙を流しても皆さんのために流しました。もし、先生が皆さんのために涙を流して生きてきた基盤がなかったならば、神様は役事されなかったでしょう(天聖経3・3・3・35)

所長視点)
私たちが御言を受け入れることのできる条件があるとすれば、ご父母様がサタンに讒訴されない、無条件の愛を注いでくださった土台があるからと言えます。ご父母様の血の代価によってサタンから復帰された私たちです。そのような私を、自分の価値観で扱うとすれば神様は役事できません

2020年8月18日火曜日

2020/8/18 心が難しいときの祈り

・神様の導きに気づけるように求める祈り
「私は相対者との出会いを通して、あなたの願いの中の何を今体験しているのか、あなたの愛の摂理をまだ悟れていません。申し訳ございません⋯⋯。この体験を通したあなたの導きに気づけるよう、私の心を耕してください。そして自分の思いではなく、あなたの願う愛の心に気づけるよう、どうか私を導いてください!」

・神様の愛してこられた相対として愛する祈り
「あなたが幼少から祝福の場まで導き育んでこられた夫(妻)を、あなたは私に委ね、与えてくださいました。感謝いたします。ですが私は今、自分の思いで夫(妻)を扱ってしまいそうです。あなたの大切な息子(娘)です。どうぞ、私の思いではなく、あなたの願う心で愛してゆけるよう導いてください。お願いいたします!」

・感情の中にあっても良心の叫びを報告する祈り
「今、自分の感情と思いがあふれ、夫(妻)を許容する心を持つ余裕がありません。お許しください。ですが、私の良心は夫(妻)と通じ合う喜びを体験したいと叫んでいます。信じてください。どうか真実の私の姿に導いてください。本当は私と通じたいと願って侍ってくれている、相対者の心とも出合えるように、天の父母様⋯⋯⋯、どうぞ導いてください」

所長視点)
祈祷文の内容を見ても分かるように、どんなに困難な中にあっても、祈る前提は、「私は神様のものです」「神様は私に愛の摂理をなさっておられる」という、"神様の愛を前提"に祈ります。

2020年8月17日月曜日

2020/8/17 神様に還る喜び

夫婦、親子は、神様に侍らなければ一つになることができないようになっています。神様のものを愛することは、神様に侍ることと同じです。今は、その喜びを体恤しながら、「神様に還る喜び」を家庭で示し、人々を導く時代です
私たち家庭が神様に侍る喜びの中で精誠を捧げれば、この世には絶対に生じない愛が始まります。「原理」は、お互いの本性を喜ばせ、価値を高め合う喜びの生活を教えています。神様に侍る「復活した生活」を、夫婦が中心になって体験することを神様は望んでおられると思います。

所長視点)
夫婦、親子に限らず人間関係においての神様の願いは、自分の本心と向き合い、相手の本心に寄り添うなかで神様の深い心情に触れることです。その喜びが自分を本然の自分に復活させてくれます。

2020年8月16日日曜日

2020/8/16 神様を中心とする夫婦の関係

統一原理でいうと、夫婦が愛し合うということと、神様に侍るということは、もともと一つのものです。「神様に侍る」「夫婦が愛し合う」を分けてしまうと、神様中心の夫婦愛と、世俗的な夫婦愛との区別がつかなくなってしまいます。神様との関係=縦的な基準なく夫(妻)をみることなしに、この世の風習や、世俗の夫婦愛、親子愛の美談などを、分別なく受け入れてしまえば、神様を中心とする愛の次元が見えてきません。祝福を受けて終わりではありません。始まりです。神様が見たかった夫婦の関係を現す、先祖や絶対善霊の思いを代表して果たす、私の本心が現したがっている夫婦の関係を現していくのが祝福を受けたものの役割であり特権です。その愛でもって神様を知らない人々の悩みを解いていくのが伝道です

所長視点)
基元節(2013年1月13日以降)は本然の時代です。神様に侍ることが夫婦が愛し合うことであり、夫婦が愛し合うことが神様に侍ることです。神様を中心とした愛かどうかは、この世の素晴らしい愛よりも輝いているか、です。昨日よりも今日、本然の愛に少しでも近づいている実感をもった生活をしていきましょう


2020年8月14日金曜日

2020/8/15 自分が強い

信仰や愛が強いのは良いことですが、「自分が強い」いうのは、この道においては障壁が多くなります。恵みを受けたとしても「自分に」受けたと喜んだり、受けた「もの」を感謝したりするのでなく、与えてくださった「お方」を思ったほうが良いのです。私を愛する愛の主体者を思わない生活には本心からの喜びがありません。一般的には、「自分が強い」というのは、たくましく頼もしいという意味を持つようですが、信仰の道においては、「神様を無視している」ということとほぼ同じになってしまいます。自分中心に私を扱っているからです。

所長視点)
世界の中心に自分を置き「私が」「自分が」と主張しているもの、「他人」の非を責めているもの、それらは自分中心の意識から生まれている心の声です。思い悩むほとんどが「こだわり」「執着」であったり「自分なりの主張」「妥協」です。それらに気がつかず「当たり前」の状態になっていることが、本心の喜びのない生活になります。本心の喜びは「細胞も髪の毛も喜びで踊りだす」感覚だそうです

2020年8月13日木曜日

2020/8/13 愛の基準

神様が私たちに愛を与えてくださるとき、どのぐらい与えたいと思われるのでしょうか。「これくらいならいいだろう」という限界を引く愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様は、すべて与えても「あなたと共に、あなたの中で生きたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質が愛です。神様も愛の中に入って僕(しもべ)になってもいいというのです (天聖経3・1・1・9)

所長視点)
愛の基準は神様にあります。神様の愛の基準をして「足りない自分」を自覚すると共に「こんな愛を自分が育んでいける喜び」にあふれて生活する、神様の愛を自分の中に発見する生活が天国生活です

2020年8月12日水曜日

2020/8/12 夫婦関係を神様に捧げる

「私は、この方のために神様が願っておられた、祝福の相対の姿として、ふさわしくあるだろうか?」と感じながら、悔い改めや感謝の心で相手を愛してゆけば、神様を愛していることになります。夫婦で向き合って手を握りながらも、お互いが神様に侍る関係になっていきます。
また、相手を見て感謝できることがあれば、その思いを相手に向るより先に、まず神様にお返しするのが良いのです。それは相手を無視しているわけではありません。相手は神様のものなので、相手を貴く思えば思うほどそうしたくなるのです。
このように夫婦の生活は、神様に侍る生活になります。私が相手の扱いを神様を中心としたとき、夫婦の関係性は神様に捧げる精誠となっていきます。

所長視点)
いままで、夫婦が仲良くすることが神様が喜ぶことだと思ってきましたが、神様の視点で相手をみる、感じる、神様に捧げる関係性こそが神様の願いであり、私たちの求めていた幸せであることを実感する生活になります

2020年8月11日火曜日

2020/8/11 神様に触れる

例えば、妻が夫に触れるとき、"夫を幼少期から、両親の背後でずっと見守り、育んでこられた神様"のことを思いながら触れてみてください。夫の手を握りながら、"一人の男性をここまで導くために苦労した神様"のことも考えてみるのです。手で触れてみた感触から、「本当に苦労をかけてきました。神様が大切に育て導いてきた男性を、私は本当に神様のものとして、大切にしてきただろうか」と、深く考えてみるのです。このような態度に対して、神様が「ノー」と言われるでしょうか?

解説)
今までと同じよう手を握ったとしても、神様を中心として、神様の視点で手を握ってみたときに育まれる愛があります。これが神様が体験してみたかった愛です。そのような生活を侍る生活といいます

2020年8月10日月曜日

2020/8/10 花の中の神様

神様の愛を慕って自分がない人は、花が美しいと感じたときに、その中に神様を見ます。なぜかというと、花の美を通して神様と関係を結ぶことに大きな喜びを見いだしているからです。花の細部にまで宿る神様の無限の投入を感じながら「神様、私もあなたを愛してます」というように「神様から愛される喜び」と「神様を愛する喜び」を同時に感じることができます。
同様に、価値ある理想相対といえども、相手のことを平面的に見れば、神様はどこにも見えません。夫婦で手を握り合い、「祝福を受けた夫婦は仲良くしなければならないので、今、一応、手を握っています。み言で教えられたからそうしています」「若い時より、肌触りはガサガサしていますが、愛さなければならない相手ですよね。よく分かりますが、暑いので手を離しても良いでしょうか」と言うような、形だけの接し方を幾ら繰り返して
も、可能性がありません。祝福を受けたとしても、神様の視点で相手を見なければ、相手を、そして自分自身をも、ぞんざいに扱っているからです。

所長視点)
夫婦で愛するのでも、まずはかたちから入るのは必要です。その上で「神様の視点」で相手をみることを通じて、神様の愛を授け受けすることができるようになっていきます。そこに相対から、創造本然の価値を見出すことができるようになっていきます

2020年8月8日土曜日

2020/8/8 神様の愛による「自己否定」

祝福による理想相対の価値に確認し、常に相対と向き合い、接し続けてゆく姿勢は極めて重要です。み言で学んだ価値観で行動できるのは素晴らしいことです。ただ、そのようにしていくなかで、私が成長し、実体になってゆく場合もあれば、そうならない場合もあります。なぜかというと、多くの課題は、み言を「知らない」ことではなく、み言による「体験がない」ことにだからです。「学んで理解して記憶もした」という条件だけでは、成長も復活がないのです。私自身が、そのみ言によって内面から創り変えられていなければ、外的にただみ言に合わせて活動していたとしても、内面では行き詰まってしまうのです。
学んだ価値を通して自らを喜んで「否定」できるのならば、そこから新しい私が創造されてゆきますが、み言を聞いても、自分なりに私を扱ったままだと、内面はそのままなのです。
ではどうしたらいいか。私に対する神様の圧倒的な愛を体験すれば、自分を主張する喜びが消えるのです。その愛で自分をなくしてしまいたいと願うようになるのです。私は神様のものだと。この飲喜の体験によって起こる「自己否定」が、み言の実体化へつながってゆくのです。ですから、その体験を慕い求めながら、私の全ての目的を、まず、そこに置いて、精誠を尽くす必要があるということです。

所長視点)
本来、自己否定は苦しみが伴うものではなく、真の愛によって自然と自分を否定するなかで成長、復活するようになっていました。いまはそのような時代に入っています

2020年8月7日金曜日

2020/8/7 理想相対

祝福の相対、理想相対とは、お互いが愛の相対として創り合い、お互いを通してのみ天国に行くことができるという唯一の関係です。愛で一つになることで神様の価値を示すことができる永遠の関係です。
相対者は、「私」に対する願いと祈りが込められた貴重な存在ですから、まるで神様が私の完成と永生のために、オーダーメードされた、み旨の実体のような存在とも言えます。
理想相対は、神様から見た理想の相対ですから、私を中心として見ると、何が理想なのか全く分かりません。相対の中に神様を見ることができるかどうかは、相対者の性質や基準にかかっているのではなく、それを見る"私と神様との関係"にかかっています。その関係の基準が、"相対に接したときの基準"になっているのです。(世界家庭 蝶野部長より)

所長視点)
神様を中心とした夫(妻)は、私が相手をどのような視点で見るかに掛かっています。神様が私に与えた理想相対としてみえない部分は、私と神様との関係を深めることで「相対に接したときの基準」が深まり、貴重な存在として永遠の関係として実感できるようになります


2020年8月6日木曜日

2020/8/6 神様の愛で否定されよう

全ての存在は自身を肯定して存在します。否定しては存在できません。しかし、愛の前には自分を否定したがります。それは、その愛を肯定したいからです。その愛によって自分の価値が高まってゆくので、喜んで自分を否定したがるのです。これが本来の自己否定です。
私たちが生活圏で愛の主体の立場に立とうとするとき、自らの愛の主体者が明確ではなく、「誰による私なのか」が確定していなければ、すぐに「自分」が出てきてしまいます。主体者の愛で自分が否定されていないと、私自身を正しく扱えず、私が愛すべき対象の中に、神様が見せたいものを見ることができなくなります。自らの体験の中にある、天のみ意をつかむことができなくなるのです。
神様と私との関係を考えたとき、神様の側が「あなたは私の愛する子だ」とおっしゃっても、私の側で「あなたの愛で創られた私は、あなたのものです」と受けていない限り、「関係」が結べないのです。愛が双方向であれば「関係」と呼ぶことができますが、一方通行では与える側に基準があったとしても、実感が伴わず、愛の目的にも達することができないので、「関係」とは呼べなくなります。

所長視点)
自分が神様のみ言の前に100%心を開いて受け入れることで、私の中の本心が100%発動して「真の愛による自分」の感情が湧いてくるようになっています


2020年8月5日水曜日

2020/8/5 私の扱い方

「信仰の出発」をしたということは、「扱い」が変わったことを意味します。その「扱い」は二つあります。一つは「私(自分自身)の扱い」で、もう一つは「人の扱い」です。これらから信仰基台と実体基台が築かれます。
私が何者であるかが確定されてこそ、私の体験が意味することも決まります。人間は堕落によって天との縦的関係を失い、自分が何者であるかが分からないままに、自らの体験の意味を考えてきました。そのため、答えが出なかったのです。
「神様を知った」ということの本当の意味は、「神様の存在を知った」ことではありません。「"私は私ではなかった”ということを発見した」ということなのです。私は主体ではなく、結果的存在、対象的存在であり、その主体者のものであった、つまり、「神様のものであった」という事実を、私が"受け入れた"ということです。そのとき初めて、私自身を"私のものとしては扱わない"という態度が可能になるのです。このようにして自分が否定されるのです。

所長視点)
自分を神様が見つめるように見つめ、扱うのが「自分中心」から「神様中心」に復活する土台になります

2020年8月4日火曜日

2020/8/4 解放されるべき神様

万民が嘆息圏を抜け出せない限り、父母の立場に立った神様は、嘆息圏内から抜け出すことができません。愛する子女が悩んでいるのに、父母が安らかな立場に立つことはできないのです。そのような立場に神様がいらっしゃるので、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万人に対して自由に愛することのできる解放圏を神様に取り戻してさしあげるべき責任があります。堕落した人によって誤ったので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません(天聖経1・4・3・11)

御言解説)
神様の愛、位置、立場は創造が始まって以降、変わらないですが、愛する我が子が神様を忘れ、神様の息子娘とは思えないほどの堕落圏内にいるゆえに、愛において拘束されている立場に立っている神様です。その神様を解放するには私が本然の神様の息子娘としての立場で神様を愛するようになってこそ、神様を解放することができるのです

2020年8月3日月曜日

2020/8/3 信念と心の土台をもつ

私たちが悟るべきことは、堕落していないアダムとエバに賦与していた、その環境的理念世界に関するものを、いかにして再び自覚するかということです。環境がいくら残忍で、いくら恩讐の悪党たちが反対して闘争が起こっても、これを克服できる信念と思想基準が確定していなければなりません。
ですから、この世界で生きているあるいはみ旨と向き合っている個人は「この世界には私だけが残っており、この世界の問題を解決できるのは私だ」という信念を持たなければなりません。「私」がこの世界を越えて、堕落していない理想的なアダムの理念を私の実体的主体思想として立て、そして決意したその決意が、この死亡世界を超越できる心の土台になっていなければ、み旨の道に行くときに、いつも失敗するようになっているのです (天聖経1・4・3・2)

御言解説)
神様は、私の家庭、社会、国家、世界の問題に対して、解決できる信念、心の土台を与えてくださっているということを自覚する必要があります。「どうしたらいいのか?」と方法論で考えて行動したり、「こうすればいいのにああすればいいのに」と当事者意識をもたずにいれば、いつも失敗してしまいます

2020年8月2日日曜日

2020/8/2 神様の救援摂理

本来、一つのみ旨として立てられた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし、神様は絶対的な権限をもった方なので、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることはできません。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様はやはり神様であり、絶対的なお方なので、本来は天使長である悪魔サタンまでも自然屈服させなければなりません。いてもいないのと同様の立場において、絶対的な神様の権威を立てなければなりません。
善なる神様は、悪なるサタンを先に打つことができません。善なる神様の愛の本質世界に、先に打てる原因、動機がありません。恩讐に対してまでも、ために生きなければなりません。万物のために投入に投入を重ね、ために生き、またために生きる神様の威信とその絶対的な権威は、いくら悪魔が生まれ、反対しても崩れません。そのような立場で、ために生き、またために生きながら来てみると、神様の救援摂理は、このように数千年の歴史を経てくるようになりました。そのようにしながら自然屈服させてきたのです(天聖経1・4・2・8)

所長視点)
真の愛をもった唯一無二、全知全能の神様でしたが、いないもとして扱われ、愛するすべてを奪われ恩讐から愛を要求されてきました。それでも神様の立場にたって愛を注がれてきた神様を誰も知らずに6000年の歴史が流れてきました。その神様を解放するのが私達の立場です

2020年8月1日土曜日

2020/8/1 神様を中心とする生活の足場

皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠の生や世界的な生と関係を結ぶことのできる、生の足場を立てなければなりません。そうでなければ、皆さんの今の生が世界的な生を経て、永遠の生になることができません。このような宇宙的な生を立てるべき人間の先祖アダムとエバが、堕落することによってそれを失ったので、これを再び復帰するために神様が六千年間苦労して来られましたが、神様のこのような苦労の歴史を復帰摂理歴史といいます。(天聖経1・4・2・2)

所長視点)
生とは生活であり生命です。今の生活環境で永遠の関係性、信頼、安心、慕わしさ、愛情、、感謝、成長を感じることが生きる意味です。堕落によって失ってしまったものですが、祝福を通じて私の夫婦に相続されます。祝福を受けたあとは夫婦間で育む努力が必要です。これが神様に対する最高の親孝行です

2020年7月31日金曜日

2020/7/31 人類歴史は復帰歴史

歴史始まって以来、今まで「人類歴史は復帰歴史である」ということを知った人はいませんでした。歴史の背後関係を「復帰」という概念で定義を下したというのは、統一教会が歴史に残した大きな功績です。歴史の根本となるのは神様であり、またその神様が責任を負い、今まで歴史をずっと治めて発展させてこられました。そのため、復帰の使命を担った数多くの個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって歴史は段階的に発展してきました(天聖経1・4・2・4)

御言解説)
今までの歴史、私達の家系、私の人生が「復帰のために神様が導いてきた歴史」であった、ということを知らずに生きてきました。私の人生が神様が導いてきた人生であって、いまも導いている人生であるという視点をもっていまの環境をみつめいくことが何よりも重要です。そう定めたときに見えてくる何かがあります

2020年7月30日木曜日

2020/7/30 神様と共に涙する心

子女は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるのにも関わらず、彼らを指導し、育成するのは非常に困難です。
人間は、神様はいくら泣いても、いくら悲しんでも、見て見ぬふりをします。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びるものを見れば、喜んで笑うと言うのです。
神様は、このような人間を中心として、指導し、開拓の方向を教えてあげようとするので、どれほどご苦労が多いでしょうか。しかし一から百、千、万までために生きようとされる心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、神様が今まで摂理歴史を続けてくることはできなかったというのです(天聖経1・4・1・52)

所長視点)
神様と心が通じないのが堕落の血統だとすれば、復帰は神様と心が通じていくことです。神様が悲しむことを悲しめる心、神様が喜ぶときに喜ぶことのできる心を育むことが復帰摂理の目的であり、神様の願いです

2020年7月29日水曜日

2020/7/29 内的勝利

いくら外的勝利が完結したとしても、内的勝利がここに伴って完結しなければ、一つの全体目的を完成することができないと見るのが原理の観点です。ここで、内的なものが重要か、外的なものが重要かということが問題です。二つのうち、内的なものをより重要視せざるをえません。内的な問題は、神様のための問題であり、外的問題は、人のための問題だからです。このような観点から、私たちは神様のみ旨を重要視せざるを得ません。神様のみ旨は、神様と内的に一つとなった個人を通して家庭を形成し、その家庭を通して内的に一つになった氏族を形成し、その氏族を通して内的に一つになった民族を形成し、その民族を通して内的に一つになった国家を形成して発展させようとするのです。これが神様の計画です
(天聖経1・4・1・31)

所長視点)
外的勝利は、神様が願われるように◯◯をやった、数字や行動を達成した。内的な勝利は心が神様との関係をどれだけ育めたか、になります。
自分のいままでの価値観を越えた親の事情、心情、愛の世界に触れていくなかで心の奥からあふれてくる感情に触れる経験になります

2020年7月28日火曜日

2020/7/28 苦痛の神様

今まで神様は、最後の死の場、最後の涙を流す場、最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てました。このようにしたのは、神様に愛がなくてしたのではありません。そのような場を解消するために、神様も、それ以上の痛みを感じられました。愛する子女が死ぬその瞬間、父母の心は、どれほど苦痛であり、愛する子女が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情は、どれほど痛むでしょうか。自分が死ぬよりも、もっと痛むのです。このような痛み心情を抱え、人類歴史が始まって以降、苦痛を受けてきた神様です。私たちは一代を中心として一度苦痛を越えれば、私たちの責任はすべて終えることができますが、神様は、今まで私たちのたくさんの先祖たちが死の道を行くたびに、涙の道を行くたびに、血と汗を流す道を行くたびに、悲しみと苦痛の道を行くたびに、激しい苦痛を受けておられました(天聖経1・4・1・16)

所長視点)
私に対して真の愛をもって絶対信仰絶対愛絶対服従の道をいかれている神様です。それゆえに痛みを感じたとしても真の愛をもって臨まれる神様の痛みと事情を知らずに生きてきた私達でした

2020年7月27日月曜日

2020/7/27 かわいそうな神様

神様は、無限にかわいそうなお方です。罪悪の子女を抱き、「愛する息子だ」と言わざるを得ない不自由な立場にある神様は、罪悪の息子、娘が生きているこの地上に来られて、引き裂かれ、傷つけられ、追われる神様です。神様は痛哭していらっしゃいます。神様の心情にはずたずたに裂けた傷があります。民族が倒れて新しい民族がつくられるたびに傷を受けられ、歴史のどの一ページにも、例外なく神様の心情の曲折が隠れているというのです。(天聖経1・4・1・12)

所長視点)
地上にも、かわいそうな方はたくさんいますが、お父様が出会った神様は「無限にかわいそうな方」でした。私達に誇れることがあるとすれば「かわいそうな神様」を受け入れ、同情し、なんとかしてあげたいという思いをもっているということだと思います。「悲しい神様の友になりたい」とみ旨の道を出発し、生涯困難な道を歩まれたお父様。「私一代で復帰摂理を終わらせます」と歩まれているお母様です

2020年7月26日日曜日

2020/7/26 悲しみの神様

神様は軟禁状態にあります。息子を失った、永遠のひとり子である息子、娘を失った父母の苦痛を抱いて生きる神様です。恨の神様です。今まで涙を流し続け、胸をたたきながら救援歴史のために人間のうしろについていきながら、数限りなく死に遭遇し、ありとあらゆることを見ても、耐えに耐えた神様です。その胸に、釘が打ち込まれているとすれば、世界を覆って余りある釘が打ち込まれているのであり、恨があるとすれば、この世の中にない恨を抱いてきたと言うのです。これが神様です (天聖経1・4・1・10)

所長視点)
堕落の結果、真の愛をもった全知全能の神様が、いまは囚われの神様となっています。それゆえに神様が分からなくなり、真の愛が分からなくなり、神様を傷つけるようなことを平気でいえる私となってしまいました。その神様を解放された方がご父母様です

2020年7月25日土曜日

2020/7/25 創造の目的

神様は、絶対者であるにもかかわらず、何が慕わしくて創造したのでしょうか。黄金や知識も必要ない全知全能の神様が、備えていないものがない神様が、何が必要で人を造ったのでしょうか。創造の根本動機とは何でしょうか。それは権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛することができません。ですから天地創造の動機は愛です。 (天聖経1・3・3・10)

所長視点)
私がこの世に産まれてきた目的が愛であるならば、愛を中心として生きるのが人生の目的です。 神の愛は無限に高まっていく愛です。飽きることのない慕わしさが育まれていく愛です。人間が問題を抱えるときは、愛のレベルをあげる必要のあるときです。どこがで、相手のせい、人のせい、神様のせい、自分のせい にしているところに気づき、受け入れていくなかで育まれていきます

2020年7月23日木曜日

2020/7/23 未完成の神様

神様が最高に喜ぶためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、お金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありません。その方は、全知全能のお方であり、創造の能力をもっていらっしゃるので、その方には欠如したものがありません。しかし神様にも、たった一つ必要なものがあります。神様にも愛が必要です。愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。このような点から見るとき、愛のために宇宙を創造したと結論づけることができます 
(天聖経1・3・3・5)

所長視点)
神様の真の愛の相対として存在しているのが「私」です。神様が「私」を通じて真の愛を現すことができ、「私」が神様の真の愛に満たされた幸せを感じることができるときが今の時です。そのために必要な内容としていまの環境があります。いままでの価値観でみてみると理解しがたいことも、その奥には真の愛に満たされるヒントが隠されています

2020年7月22日水曜日

2020/7/22 本心との対話

私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。皆さんが神霊的な世界に入って、「神様!」と言えば、心の中から「どうした!」と答える体験をして、初めて分かるようになります。そのように尋ねれば、天から答えが来るのではなく「私」の心から答えが来ます。本来、アダムとエバが堕落しなければ、神様がアダムとエバの本心の奥深くにいらっしゃって、アダムを導くのです。ですから聖書を見ると「アダムが名をつけた通りになった」と言ったのです (天聖経1・3・2・20)

所長視点)
本心にいらっしゃる神様がわからなくなってしまったのでが堕落です。私達の心が サタンの拘束をうけ、神様がわからない立場で人生を歩まなければならなかったため、考え方の習慣性、こだわりができました。神様が見る視点でものごとがみえず、自分の考えの範囲の中でしか判断できなかったのが今までの人生です。本心との対話を重ねていくことが神様との関係を取り戻す道です

2020年7月21日火曜日

2020/7/21 神様が住みたい場所

神様は、無形の神様なので、どこでも通じることができます。ですから、どこでも行けないところがありません。すべて通じるというのです
それでは、神様は、どこで暮らすのでしょうか。神様が暮らす家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性格の心情がとどまり、女性の心には神様の女性格の心情が入って暮らすというのです。したがって、本来の人類の先祖であるアダムとエバは、見える神様です。ですから、アダムが名前をつければそのようになり、アダムの願いはかなわないことがなかったということです (天聖経1・3・2・18)

御言解説)
どこにでもいける神様がとどまりたい場所が、わたしたちの心の真ん中である本心です。それが意識しないと忘れてしまうほど、心の中心があいまいになってしまっています。真の愛の根源であり、全知全能の神様につながっていくところに、すべての願いがかなっていくのです

2020年7月20日月曜日

2020//7/20 本心の声

私たちが行くべきただ一つの道は、どこにあるのでしょうか。心の声にあるのです。ですから、善なる心をどのようにして外形的な版図に広げていくかということは、天国を所有でき、最も善で、最も貴いものを所有できる基盤を築くという問題に直結しているのです。これを一日の生活哲学として、一日一日の生活目標として立てて、闘争していくことが、社会や民族、または国家に影響を与えるよりもっと貴いことを、皆さんは知らなければなりません (後天時代の生活信仰)

御言解説)
私たちがいくべき道は本心が知っています。いままで私達が認識してきた心の核心的な部分が本心です。常に自分の本心に尋ねる生活をすること、本心の声に耳を傾けることが重要です。特に「なぜこんなことが起こるのだろう…」というときは、深く本心の声に耳を傾けてみてください

2020年7月19日日曜日

2020/7/19 愛の原則

完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けてこそ、完全に返すのです。それを受ける前に返し始めれば、安全なものは戻ってきません。それが愛を中心とした授受作用、原理原則を中心とした宇宙の原則です。(天聖経1・3・1・24)

御言解説)
神様からの父母の愛で愛されていることを感じるようになっていくことで、真の愛が自分から流れていくようになります。自分のこだわり、自分の人生観、自分が執着している分、絶対的な神様の愛が入ってきません。深く広く、神様の前に心が開かれた分、神様の真の愛が全身に染みてきます。その結果、自然と感謝、感動、喜びが湧いてきます。
「本心は第二の神様」ですから、神様の真の愛は、自分の本心から流れてくるので、神様に心が開いてない=自分の本心の動きに関心がいってない、ことになります

2020年7月18日土曜日

2020/7/18 創造の原則

万物を創造するということは、自分の本質を取り出すことです。結局はエネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の投入を意味するのです。投入するのです。対象を創造する理念の世界は愛によってなされたので、そのみ旨を成し遂げるために神様は投入されたのです。
投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に結実させるためです。ですから、愛で造りました。それで、投入して神様が願うことを感じるのではなく、満足を感じることができたのです。それが原則になることによって、愛の伝統においては父母の愛の本質が残りました。自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原則です (天聖経1・3・1・19)

所長視点)
ために生きるとは、相手が喜ぶことをしてあげる、ことから始まって相手の立場で物事を見つめ、考え、感じることが本質です。イメージ的には「自分の靴を脱ぎ、相手の靴を履く」「相手の目玉で物事を見つめる」ことです。完全に自分を離れなければ、相手の立場には立てません。創造というのは生命を吹き込むことです。自分の生命を相手の中に捧げる人生が父母の愛であり、神様の創造の世界です

2020年7月17日金曜日

2020/7/17 唯一無二の価値

神様が天地万物を創造されるとき、なぜ人間を造ったのでしょうか。相対がいない神様としては刺激を受けることができないので、相対を造って理想の愛と生命と希望の刺激を感じるために造りました。聖書で見るように、神様が人間を作るとき「おい!人よ、現れる」と言って簡単に造ったのではありません。神様は、あらゆる生命と愛と希望を懸けて人間を造りました。結局、神様と人間の関係においては、投入という言葉、無条件投入という言葉、全体投入という言葉を語ることができます。ここから、神様が真の愛を成すための方向性を探ることができます。
相対に100%投入したのです。投入する過程は、神様自体の消耗です。しかし、完全投入したという日には、問題が異なります。100%投入して完成する日には、百を投入したものは百のものが完成して、そこに相対的な愛がプラスされて神様に帰ってくるというのです。ここに相対的な愛の権限、相対的な特権の価値、自分が投入したすべての内容がプラスされて登場するようになるのです。そうすることで、神様は初めて刺激的な幸福を感じられるというのです (天聖経1・3・1・14)

御言解説)
私という存在は、神様がすべてを捧げた結果産まれた存在です。出産と同じです。十月十日育んで出産のときにはすべてを捧げて産み出すお母さんの姿は、神様の創造と一緒です。そのようにして産み出したした、かけがえのない存在に出産のときに捧げた心情以上の愛情を捧げ続けられてきた存在が私です。神様の視点でみるとき、「私」という存在はかけがえのない価値をもった存在なのです。その視点で自分自身を見つめることが重要です

2020年7月16日木曜日

2020/7/16 体を主管する

私たちは、二十四時間を治めなければなりません。時間を治めなければなりません。愛は、時間圏を治める立場に立たなければならないのです。その次には、行動を治めなければなりません。愛は行動を治める以上の立場に立たなければなりません。時間を治めなさいという言葉は、睡眠を治めることです。行動を治めなさいというのは、御飯を食べることなど、あらゆる欲を治めることです。そして情欲を治めなければなりません。愛は、その上にあります。その次には、物欲を治めなければならないのです (天聖経 8・2・5・9)

所長視点)
時間、行動、情欲、物欲を愛で治めるというは、我慢することではなく、愛を先だてるということです。まず、24時間をどのような心で過ごしているのか?行動しているのか?常に私の関心が心に向く必要があります。そして神様の視点と自分の視点をあわせて行動することで、私の心の中に神様を見つける。それが愛で治める、ということになります

2020年7月15日水曜日

2020/7/15 私自身

神様が私たちの心の中心ならば、その神様が望む目標と、私たちの心が望む目標とが一致しなければなりません。また、心と体がひとつになるために、体がこの地の理想的な基準と一致しなければならず、心は神様が目標とする方向と一致しなければなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理想世界は必ず訪れるものなので、「私」の体が生活において善の理念世界と接する関係をもっていなければなりません。心の基準が神様の基準と分かれるとき、苦衷が生じるようになり、体の生活基準が世界的な理念と相反するとき、また、苦衷が生じるのです。それでは、どこから是正するのでしょうか。それは相対圏ではなく、私自身にかかっています

天聖経8・2・4・13

所長視点)
神様と私の心の方向性が一致しているかどうかは、私をとりまく人間関係をみればチェックできます。神様の願いと私の体の方向性が一致しているかどうかは、私をとりまく生活環境をみれば分かります。それが私の心と体の映し鏡になっています

2020年7月13日月曜日

2020/7/13 神様を中心とする生活⑤

「神様と接触する瞬間」
天は、生命の主体あり、理念の主体であり、愛の主体であって、私たちの心と体の主体です。ですから、私が天と接触する瞬間には、私の体は自分の体ではありません。私の心は自分の心ではなく、私の心情は自分の心情ではないのです。私の理念は自分の理念ではありません。その時こそ、神様を身代わりした体になるので、万物の主人公になるのです。その時に、私の心が神様と同じ心になるので、私の心は神様を身代わりすることができるのです。その時に初めて私の生命は、万宇宙を動かせる生命の権限を持つのです。私の心情は、神様の心情を身代わりして現れることができ、私の理念であり、父の理念だというのです。それでこそ私たちの心的な願いのすべての目的が集結するのです
(天聖経8・2・4・10)

御言解説)
私の今までの人生で、自然と心から感謝と感動があふれたときが一度や二度はあったと思います。大自然に触れたときや、人の大きな愛にふれたときの感動です。自分の考え方や価値観が大きく影響されたような感動的な出来事や出会いです。いつまでもその思いに浸っていたいと思い、自然と涙が流れる心の状態。そのときが天と接触している瞬間です。
生活の関心が、考えや行動することになってしまっていると、日々の生活に追わるようになり、妥協、打算、惰性的に生きるようになってしまいがちです。1日を1週間を振り返ったとき、感謝と感動で涙があふれ、心が震えたときを思い出せないとすれば、心よりも体が中心となって生きているということに気づく必要があります。

2020年7月12日日曜日

2020/7/12 神様を中心とする生活④

神様は人の心を治め、人の心は人の体を治め、人の体は万物を治める
「私」一人には、神様が入っていて、家が入っていて、人が入っています。心が主体となり、体は対象になります。心は、体の中心になるので、意思がなければならず、観念がなければならず、主張がなければなりません。これが一つに一致した人を人格者といいます。心の命令通りに体が動く良心的な人を、人格者というのです。自分の一身を思い通りにできる人が人格者です。ですから、心が中心です。心は神様の代身であり、体は人の代身です。神様は人の心を治め、人の心は人の体を治め、人の体は万物を治めるのです
(天聖経8・2・4・5)

所長視点)
本心は第二の神様なので、心の中心が「本心」であり、本心を中心とした心が、体の主体になることですべての問題は解決します。体はいま生きている事情、課題、問題、人間関係、環境を代表しています。それを頭で考え、いままでの経験の中で頑張ってなんとかしようとしても限界があります。これは体が主体になっている状態です。心が弱っていると体に引っ張られてしまいます。心の感じていることに関心をむけ、気づいていくこと、その先にある本心の心情の世界、父母の愛の世界につながることで心は元気になり、体の主体になれます。この状態が人格者です

2020年7月11日土曜日

2020/7/11 神様を中心とする生活③

心は、宇宙の神様を身代わりしているので、父母の中の父母です。師の中の師であり、主人の中の主人です。ですから、純潔さを持っている「私」の心は、世の中の母よりもっと近い母であり、父母です。世の中のどんなに立派な先生よりも、私に一番近い先生です。また世の中のどんな主人よりも、自分の僕(しもべ)たちを正しく導いてくれる主人の立場に立っているのが心なのです

天聖経8・2・4・3


御言解説)
純潔さをもっている心というのは「本心」で「本心は第二の神様」です。本心はいつでも私を幸せにする方向に導こうとしてくれる父母であり、師匠、先生、主人です。本心の声に耳を傾ける生活が神様を中心とする生活であり、本来の私の生き方でした。
本心が何を感じているのか、より今までの自分の考えや過去の経験で判断するのを先立てていくと本心は傷つくので、それを繰り返すと本心の声は聞こえづらくなってしまいます。
いま本心が何を感じてどこに自分を導こうとしているのか、そして受け入れてみましょう


2020年7月10日金曜日

2020/7/10 心は父母の中の父母

私たちがほかの人と和合できない心をもっているとすれば、私たちは、その心を動かして、すべての人に100%合わせることができる心の修練をしなければなりません。そうでなければ、サタンは終わりの日に皆さんを審判台の上に立てておき「誰それよ、お前はこのような不備な条件があるではないか」と言って、そのようにできない点を揚げて讒訴するのです

天聖経8・2・4・2


所長視点)
和合した状態は心情が通じた状態です。事情、願いが心で感じ合う状態になります。夫婦、家族、前後左右の人と心情が通じ合う関係性を築くことが私達の責任分担であり、そこに幸せがあります。
終わりの日は真の父母が来られた今です。今まで先祖が和合した関係性を築くことが出来ずもつれ、恨みになったすべての関係性を整理し、愛溢れる関係性とすることができる時代が来ました。できる時代であるからこそ、それをさせないようにサタンが私達の先祖に恨みのある霊をつかって、本来の情的関係を分からなくして恨みを晴らそうとする時代でもあります

2020年7月9日木曜日

2020/7/9 神様を中心にする生活①

心は永遠を伴い、体は一生を伴います。心が生涯を調整して現れ、体は生活を調整して現れます。生活と生涯は異なります。生涯とは一生について語ることであり、生活とは一日について語ることです。このように、私たちの心と体は、それ自体が異なります。人間は、心が生涯を主管し、体が生活を主管するようになっています。ですから、一日一日の生活で食べなければ、体は死ぬようになります。しかし、心は食べるには食べますが、生涯の観点から外れる立場で食べてはいけないというのです。このような意味から見るとき、心が望む観念がより大きいというのです

天聖経8・2・4・1


所長視点 )
心が求めるもとの身体が求めるものが違います。今週を振り返ったとき、生涯(霊界にいく準備として真の愛を育む人生)を求めて行動することが多かったのか、生活の事情や問題解決に追われて行動することが多かったのか、確認する必要があります。心を優先として生きるとき、生きて天国生活をすることになり、生活の事情や問題解決を優先して生きる生活を地獄といいます。
心を主体にするには、まず自分の心がいまなにを感じ、何を求めているのか、静観することが重要です。生活するので心が一杯で見えなかった心の深い部分まで掘り下げていくなかで、心が解放され心の中心におられる神様により深くつながることができます

2020年7月8日水曜日

2020/7/8 生命の根本

皆さんが神様の愛をもつためには、神様の生命を根本にしなければなりません。そのようにしなければ、神様の愛が受けられません。神様の生命をもつようになれば、恩恵があります。神様の生命を土台にする人にならなければ、神様の愛を受けることができません。皆さんは、その恩恵を受けなければならないのです。恩恵の表示は、幻想や夢のようなものによって現れます。皆さんは、実体の神様の立場にある真の父母が慕わしくて、泣かなければなりません。しきりに会いたいと思わなければなりません。ご飯を一膳炊いておき、水を一杯くんでおいて侍りたいと思わなければなりません。そのような、切実な心を持たなければなりません。涙が先立つ心情をもっていればよいのです。そうすれば、先生を中心として、皆さんの心情一致がなされ、先生と共に呼吸することによって、先生の人格基準と、その背景となる先生の過去と、過去に絡まった事情がどうなっているのかを知るようになり、さらにはそれを相続し、引き継ぐことができます

天聖経2・4・5・13


所長視点)
神様の生命を根本にするには、自分の生命が神様によって与えられ、神様によって生かされ、神様と共に生きてきた人生であったということを受け入れることです。悲しいことも辛いことも楽しいことも嬉しいことも神様と共に歩んできたという事実を知り、まるごと受け入れるときに神様の愛が溢れてきます。そうすると真の父母様が慕わしく思えてきます。そこから神様が宿る人格が整っていくのです

2020年7月7日火曜日

2020/7/7 心情の相続 

神様が願われた真の父母であり、人類が望んだ真の父母であり、天地がの待ち望んだ真の父母は、歴史的な解怨をして神様の心情的な偉業を相続するために、この地上へ来られた方です。このような真の父母を再び相続しなければならないのが、私たちであり「私」です。このような父母を相続するためには、神様の悲しみはすべて知らなくても、真の父母の悲しみの一面を体験しなければなりません。新たに地を探すために天がしてきた苦労も、もちろん知らなければなりませんが、それはすべて知らなくても、地上で苦労した真の父母の心情がどのようなものだということと、悲しい内容がどのようなものだということを、ある一面でも知らなければなりせん

天聖経2・4・5・12


所長視点)
真の父母の子女になるのが「祝福」です。受けて終わりではなく、真の父母様が神様をどのように見つめ、人類の問題もどのようにみつめ、解決しようとし、私達をどのようにみつめているかを知るのが自叙伝であり、 原理講論です。だた読むのではなく、父母様の視点を理解し、自分もその視点で見つめ、行動しようとするとき感じる感情が真の父母様の心情と通じるのです

2020年7月6日月曜日

2020/7/6 サタンに勝利する

父母の心情を知るためには、一体ということをどのようにして感じるかが大きな問題です。サタンに勝利するまでは、それは絶対にできません。体恤が訪れないというのです。ですから、先生が、発電所と送電所を作っておきました。個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的、天宙的、神様まで、このような塔を作っておきました。今、心情の電線を架けなければなりません。これは、先生がするのではなく、神様がしてくださるのでもありません。皆さんがしなければなりません

天聖経2・4・5・10


所長視点)
心情一体化するためにはサタン分立が必要です。そのためには自分の中のどこをサタンが握っているのか気づく必要があります。サタンは霊的な存在ですから、自分の感情のどこを握っているか。自分では分かりません。堕落性に気づくには、自分と同じ堕落性をもった人をみれば気づけます。自分の気持ちが通じない、ムカッとさせる人がサタンが握っている堕落性を教えてくれます

2020年7月5日日曜日

2020/7/5 神様の悲しみ

皆さんは、神様の悲しみを知らなければならず、神様の悲しみが大きければ大きいほど、私たちを祝福したいと思う心が切実だということを知らなければなりません。復帰過程にいる皆さんは、まず真の父母に侍り、その次に、再びその関係を連結して、天上世界まで収拾しなければなりません。このような立場で、皆さんに天地を相続させてあげ、宇宙を相続させてあげ、万民を相続させてあげたいと思うのが、神様の心情です。したがって、皆さんは、神様の代わりに、真の父母の代わりに、真の息子、娘の使命を果たして、神様のみ前に立てられる真の子女の栄光の基盤を備え、神様が「忠臣だ」だと言える基盤を備えなければなりません

天聖経2・4・5・9


所長視点)
神様の悲しみを知るには、神様の立場を知り、その立場でいま起こっている出来事、環境、人間関係を見つめたときに感じるその感情が神様の心情に通じます。神様の立場に立ったとき感じる言うにいえない感情を受け入れ、御言で整理し、自分の中の堕落性に気づいていくながで自分の心を解放していくのが、私達の責任分担です

2020年7月4日土曜日

2020/7/4 不条理の道

皆さんが、真の父母の心情と神様の愛とその心情をどのように体恤するのですか。その境地にどのように入るかが問題です。そのようにするには、堕落していないアダムとエバにならなければなりません。サタンが讒訴できてはいけません。それでは、サタン世界でどのように解放されるのですか。サタンと闘って勝たなければなりません。そうするには、どれほど苦労し、どれほど苦しまなければなりませんか。ヤコブが十回騙され、モーセも十回騙され、イエスキリストもそのように欺かれました。先生も同じです。それを克服していかなければなりません。そのときに、神様の心情を知るようになるのです。父母様の心情を知るようになるのです。そうでなければ、絶対に分からず、そうでなければサタンが離れないのです。サタンに勝利できない限り、父母の心情を知ることができず、神様の心情を知ることができません

天聖経2・4・5・8


所長視点)
父母の心情、神様の心情を知るにはサタン分立する必要があります。そのためには身悶えしながらも、不条理の道を行きながらも神様を子女としての位置を離れずにいくなかでサタンが離れていきます。サタンは愛の減少感を越えることができず、不条理の道を越えることができないので、その道をいくときサタンは離れざるおえないのです

2020年7月3日金曜日

2020/7/3 心情

皆さんは心情を合わせもってこそ、天の勇士になることができます。心情を除いてはなれません。心情がなければ、人格は出てこず、心情を通じた人格が出てこなければ、心情を通じてた真理も出てこず、心情を通じた真理が出てこなければ、理想が出てきません。皆さんの理想は何ですか。真の父母です。統一教会は、歴史が求めてきた中心である真の父母に侍るところです。時代が要求する中心である真の父母に侍るところです。未来の起源になることができる真の父母を「私」が相続することができるのです。したがって、私は歴史的な実です。私は時代的な中心です。未来の起源になり、先祖になるのですが、真の父母の心情と一致できる関係も結んでこそ、そのようになるのです。このような心を持ってこのような祈りをすれば、天の前に恥ずかしくありません

天聖経2・4・5・6


所長視点)
心情とは「愛することを通じて喜びを得たいという情的衝動」です。自分の中にこの「情的衝動」が滾っていることに気づくこと。それに気づけば人格が整い、情的方向性が定まり、その先に見えてくるのが「真の父母」になります。私達は、いきなり「真の父母に侍る」時代を迎えてしまったので、かえって自分の中の「心情」の重要性が曖昧になってしまうことがありますが、心情なくして何も始まりません。心情を見えなくするのが恨霊の働きです

2020年7月2日木曜日

2020/7/2 真の父母の理念

神様が、各時代に、私たちの先祖を訪ねてきて相続させてあげたいと思われた心情を中心とする偉業を、今までアダム家庭から歴史的な終末まで連結し、一つの勝利的な心情の実体として天地に立てるものが、天地、あるいは全人類が願う再臨の理想、すなわち真の父母の理念です。したがって、この真の父母を中心として、真の父母を完全に皆さんが相続することができ、真の父母を皆さんの父母として侍ることができ、真の父母の解怨を皆さんの解怨として感じる位置に立たなければ、天の祝福、あるいは相続を受けることはできません

天聖経2・4・5・3


所長視点)
真の父母の理念を現したのが「家庭盟誓」です。「家庭盟誓」を唱和するときが真の父母の理念と共鳴しているときです。書写するとき訓読をするときも、頭で理解する時間でもありますが、もっと重要なのは真の父母の理念と共鳴することです

2020年7月1日水曜日

2020/7/1 心情一致

神様のみ旨を真の父母が相続し、真の父母のみ旨を皆さんが相続して、その伝統的な思想を失ってはなりません。その伝統的な思想とは何でしょうか。人間が恩讐サタンの血統を受けて生まれたので、この恩讐サタンの血統を除去したのち、神様を中心として、真の父母を中心とする血統を復帰しなければなりません。そのためには、神様と心情的に一致しなければなりません。心情的な一致を基盤にして、天の血統を受け、神様を根とする木の枝になり、葉になり、神様の代身の実体となって、サタンを屈服させる絶対的な基準を、地上に立てておかなければなりません。そうしてこそ、復帰の歴史が推進されていくのです。
神様は、決して復帰歴史を放棄されません。皆さんが使命を果たせないからといって、神様は、この家を放棄されないのです

天聖経2・4・5・2


所長視点)
血統を除去する=祝福を受けたのち、神様と心情一致していくことで地上にサタン不可侵圏が生まれます。心情一致とは神様の立場をまるごと受け入れることで、神様の事情を理解し、その立場で歩まれてきた神様を思い、その立場で愛を注いできた神様の役割の一旦を担うことで神様の心情の触れることを心情復帰といいます

2020年6月30日火曜日

2020/6/30 強く大胆であれ

今日、左翼と右翼がすべて滅びるようになりました。誰がそのようにしましたか。神様と真の父母がそのようにしました。真の父母と一つになった家庭は、世界のどこにいようと、今まで真の父母が歩んできた道を相続したので、そこで強く、大胆であれというのです。そうすれば、神様とこの宇宙が先生を保護するように、その家庭を保護するので、一国を消化することは問題ありません。皆さんが先生のように一線に立ちなさいというのです。戻ってはならないというのです。真の愛で直行するのです

天聖経2・4・4・10


所長視点)
真の父母と一つになる、というのはすべての事情、状況を自分の責任として丸ごと受け入れていくということです。そうすれば宇宙と神様が保護してくれる、一国を復帰する道が拓けてくるということです

2020年6月29日月曜日

2020/6/29 安息圏

カイン家庭はアベル家庭のためにあり、カイン氏族はアベル氏族のためにあり、カイン民族は、アベル民族のためにあり、カイン国家はアベル国家のためにあるという観念がはっきりと立つとき、初めて守護圏が生まれます。「難しいことがあれば、自分が責任を持とう」というようになるとき、そこに安息圏、すなわち天国が建設されるのです

天聖経2・4・4・9


所長視点)
私達の家系においてアベルの立場は私達になります。祝福を受けていれば私達の家庭がアベル家庭です。カインがアベルのために生きるには、まずアベルがカインのために生きるのが先です。アベルがカインに接したように、カインはアベルに接するようになっています

2020年6月28日日曜日

2020/6/28 選民

天運の時代に突入する時において立てられる「真の父母」と真の子女と真の夫婦は、どのような人たちでしょうか。そのような人たちは、人間の情に通じ、神様の心情に通じた人たちであり、神様の心情が宿る宇宙的な苦難を体恤した人たちであり、神様の真の愛を中心として「神様は私の父である」と言える、その何かを感じた人たちです。6000年の歴史を経てきながら、人間は、人間の縦的な問題を解決できず、横的な問題も解決できませんでした。人間は、このような問題を解決してくれる宗教を求めてきました。私たちは終末時代においてぶつかる峠と、すべての障壁を越えていかなければなりません

天聖経2・4・4・2


所長視点)
人間の情に通じる=困った人がいたら平気でいられない
神様の心情に通じる=人類が幸せでない姿をみて悲しんでいる神様がわかる
宇宙的苦難を体恤した人=先祖の苦難をなんとかした
「神様は私の父である」と感じた人=はっきりとは分からないがそのようだ

これが私達であり、歴史的にみたら「選民」になります

2020年6月27日土曜日

2020/6/27 真の子女の道

六千年の復帰摂理歴史は、父母を復帰するための摂理歴史です。父母を復帰し、子女を復帰する摂理歴史です。そのような復帰摂理路程においては、父母と子女が同じ責任を担っています。父母が個人的な十字架、家庭的な十字架、氏族、民族、国家、世界、天宙的な七段階の十字架路程を歩んでいるので、子女である皆さんも、そのような七段階の十字架路程を歩まなけばなりません。期間の長さの違いがあるとはいえ、先に行くかあとにいくかの違いがあるとはいえ、蕩減条件の内容は同じなのです

天聖経2・4・4・1


所長視点)
いままでの歴史は真の父母を求めてきた歴史であり、真の父母を復帰した土台で子女を復帰するのが最終目的です。父母の活躍をサポートするのも重要ですが、私が真の子女になるほうがもっと重要です。真の子女になるには真の父母が拓いてくださった道を道標通りに進んでいく。その道標が本心です。本心が元気でないと苦労しても頑張っても違うところへいってしまう可能性があります

2020年6月26日金曜日

2020/6/26 選民

キリスト教が世界的な版図を形成するまで、どれほど犠牲の代価を払ったか分かりません。殉教の祭壇で絶えず犠牲になることによって、その悲惨な叫び声が地球上に響き、その泣き声の聞こえなかった所がないほどになりました。その血の祭壇が連続し、今日、目前にまで到達した歴史的な恨が絡まっているのです。これを受け継いで解怨すべき、厳粛な歴史的な課題を抱いてる私たちは、神様を解放し、キリスト教を解放しなければなりません。キリスト教を立てて以来、今までキリスト教がどれほど悲惨な歴史を経てきましたか。これを解放しなければなりません。天宙を代表した天地の主体の国として、主体の宗教として、人類を収拾するばかりでなく、後代の千秋万代に勝利した王子権である長子権を賦与されなければなりません

天聖経2・2・1・16


所長視点)
選民が歩んできた道は「祭物」に道です。神様ゆえに犠牲になり生命を落とす方々が世界中にいました。その方々は、「誰かがいかなければならないなら、私が行きます」と潔くその運命を受入れていった方々です。その方々を義人といいます。私達も先祖を代表して召命された義人です。その自覚と誇りこそが神様を慰める材料になります

2020年6月24日水曜日

2020/6/24 本心の願い

私たちが抱くべき希望とは何でしょうか。天に代わってこの地に来られる真の父母様に侍ることを心から希望しなければなりません。侍るには、勝利の基盤が形成されたのち、万民が仰ぎ見、万民が恭敬するようになった立場で侍ることを願ってはいけないのです。悲しい歴史を経ている真の父母に侍ることを願わなければなりません。悲しい歴史を経ている真の父母に侍ることができなかったことを、先祖たちは恨と思っています。真の父母に侍ることを、全人類は心から希望するのです。ですから、栄光の場で侍ろうとするより、悲惨な場で侍る真の考子、真の孝女にならなければなりません

天聖経2・2・1・5


所長視点)
私達の本心には孝情の種があります。親が大変なときに「もう少し親の生活が楽になり、豊かになったら親のところにいって生活しよう」と思うより「親が大変なら、親を助けてあげたい。お金が大変ならお金を工面してあげ、願いがあるなら叶えてあげたい」「親の笑顔がみたい。親が喜ぶ姿がみたい」と思って生活がするのが私達の本心の願いです

2020年6月23日火曜日

2020/6/22 神様の代表者

神様が原因者であられるので、原因であるその方を中心とした代表者として、この地上の私たちの家に住む人が祖父母であり、その祖父母の伝統を受けて現れ、血肉が通じ、生命と愛と血縁が直結している人が父母であり、また「私」と共に直接血統を一緒に分かち合ったのが兄弟です。真の愛、真の生命、真の血肉を通じて連結されている一族が家族なのです。その愛は、東西南北のどこに行っても、前後左右のどこに行っても変わらない、一つも核心的な統一された愛であることは間違いありません

天聖経5・1・1・7


所長視点)
神様を中心としている家というのは、神様の代表者として「祖父母」を大切にしている家であり「先祖」を大切にしている家です。祖父母が「この家にいて幸せだ」と感じている家が神様を中心としている家族になります

2020年6月21日日曜日

2020/6/21 家族の関係性の基準

神様の創造原理によれば、天国は、まずこの地上世界で完成されなければなりません。本来人間は肉身を持って地上で天国生活をしたにちに、自然に肉身を脱げば霊界の天国に場所を移して永生するように創造されました。そうだとすれば、私たちが創建すべき地上天国とは、どのような姿でなければなりませんか。本然の家庭と天国とは、その類型が同じです。基本的に家庭には、本然の父母がいて、本然の夫婦がいて、本然の子女がいて、本然の兄妹姉妹がいます。その家庭が真の愛を中心として一つになれば、和合と統一は自動的にやってきます。その基盤の上に、真の愛と真の生命と真の血統が連結され、理想の目的も可能になるのです

天聖経7・1・4・17


所長視点)
いま生きているうちに親子、兄弟、夫婦の関係性のなかで心情が触れ合う感動と感謝の生活を開拓することを通じて地上天国が拓かれ、天上天国が開拓されます。その基準は自分の中にあるのではなく、相手、地域、社会の状況がいまの自分の家庭の関係性の結果になります

2020年6月20日土曜日

2020/6/20 欲望の終着点

欲望の終着点はどこでしょうか。神様の愛を所有するところです。神様を所有したといっても、その中にもっと貴い愛を所有できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を所有しなければなりません。その方のものが「私」のものであり、「私」のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にある存在の中で、自分のために存在しないものはないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ち溢れたところです

天聖経7・1・4・10


所長視点)
本心は第二の神様です。だとすれば本心をもっている私は神様を所有し、神様の真の愛を所有しています。私の中にある「真の愛」と一つになることが個性完成であり、家和することになり、万事の問題が解決する道になります

2020年6月19日金曜日

2020/6/20 美しい心の状態

天国は、心情を通じなければ行くことはできません。天国は、全体を主管できる本然の国であり、本性の国です。その国は、何かの事情をもって所有することはできません。深くしみ込む心情関係をもってこそ、所有できる国です。ですから、事情が通じるより、究極的に心情が通じなければなりません。事情を越えて心情を謳歌できる基盤を築くところに、地に対して摂理する天の目的があります

天聖経7・1・4・5


所長視点)
人間関係で目指すところは事情を理解しあうこと。そして心情を謳歌できる関係を築くことです。そのために必要なのは「心が主体となっている状態=美しい心の状態」です。祈りも座禅もお経も修行もすべて、心の状態を本来の状態にするためのものです。それなくして頭で考えても解決できません

2020年6月18日木曜日

2020/6/18 与えること

神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければなりません。天国は与えながら生きるところです。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。赤ん坊にどんなに晴れ着を着せ、どんなに良いものを食べさせたとしても、それで満足するのではなく「もっと良いことをしてあげられないか」と思うのです。与えてからもっと良いものを与えたいと思うのが、父母の心であると同時に、神様の心です

天聖経7・1・4・7


所長視点)
与えることはGive and TakeではなくGive and Give でありGive and Forget です。与えたら返ってくるだろう、実績がでるだろう はGive and Take の世界であり打算的です。本当の信頼関係は結べません。与えていく生き方を選択していくなかで「生かされている自分」に気づく。実績がでる。これが天国生活です

2020年6月17日水曜日

2020/6/17 心情が通じる体験

天国は、心情を通じなければ行くことはできません。天国は、全体を主管できる本然の国であり、本性の国です。その国は、何かの事情をもって所有することはできません。深くしみ込む心情関係をもってこそ、所有できる国です。ですから、事情が通じるより、究極的に心情が通じなければなりません。事情を越えて心情を謳歌できる基盤を築くところに、地に対して摂理する天の目的があります

天聖経7・1・4・5


所長視点)
いまの肉身があるうちに心情が通じなければ、霊界にいっても通じません。事情がちがう人、考えが違う人、宗教、文化が違う人と違いを受入れながら、心の世界が触れ合う体験を重ねていくことが肉身生活の目的であり、天の父母様が人間関係、出来事、環境を与える目的でもあります。

2020年6月16日火曜日

2020/6/16 天国へいく準備

天国は、膨大なところです。この宇宙よりもっと大きく、もっと広い世界です。それは、形容できないほど膨大な世界です。そして、その世界では、愛する人がその世界のどこにいたとしても「私」が「会いたい」と思えば、直ちに現れます。どのような心を持って会いたいと思うのか、あちら側ではすぐに分かるのです。来るやいなや、挨拶します。「このように思ってくれてありがとう」と相手が思ったことを言ってくれるのです。
ですから、心の世界を説明する必要がありません。説明する必要がなく、すべて感じるのです。そこに行って会えば、どのようなことを話すのか分かります。分かってから聞くのです。どれほど素晴らしい世界ですか

天聖経7・1・4・1


所長視点)
天国での生活をするために、いま生きているときに天国での生活の準備が必要です。天国が膨大なところであれば、私の心の国境線を取り払い、こだわりに気づき、心を膨大な本然の姿にする必要があります。自分の心を解放して真の愛があふれる自分にする生活がいまの生活です。霊界にいけばすべて解決するわけではありません。今は分かりあえなくても霊界にいけば通じ合うので、分かりあえる…というわけではないのです

2020年6月15日月曜日

2020/6/15 最高の位置

人間には、生きる目的があります。ところが、生きていく人間の目的がすべて異なっています。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」というのは、何のためですか。神様の息子になるためです。ですから、神様を愛するためなら、命までも差し出しなさいというのです。そのようにしなければならない私たちは、最低の位置で死ぬことはできません。最高の位置で死ななければなりません。天国を中心として死ななければならないのです。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。死ぬにも方法があり、位置があります。韓国的なもののために死ぬことはできないのです。最高の位置、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とする最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死に、天下が旗を揚げて歓迎する位置で死ななければなりません

天聖経7・1・4・19


所長視点)
最高の位置というのは、死ぬような状況であっても本心が主体であり、本心と感情を大切にできる状況です。そのような状況が神様の心情の国で生活です。この感覚を生きているうちに育むことが人生の目的です

2020年6月14日日曜日

2020/6/14 万事なる

「家和して万事成る」というとき、金塊を中心として喜んだからといって「家和して万事成る」が成就示されますか。それを分けずに互いに見ているときには「家和して万事成る」になりますが、分け合おうとするときには争いが起こるのです。しかし、愛をもって分けようとするときには、分ければ分けるほど「万事成る」が起こるのです。お金をもって分けるときには、分ければ分けるほど分裂が起きますが、愛を持って分ければ分けるほど統一が起き、和合が起き、平和が宿るのです。愛を持って「家和して万事成る」です。父が母を愛し、母が父を愛し、父母が子女を愛し、子女が父母を愛し、愛の交流で和合することによって「万事成る」になるのです

天聖経5・3・1・13


所長視点)
すべての問題は家が和するときに解決する。家が和するには愛が中心のコミュニケーションが重要です。愛を中心としていれば和合、統一になります。授受作用ですから、すべてを受け入れることですべてを愛することができます。

2020年6月13日土曜日

2020/6/13 死ぬ理由

人間は神様に似ようとし、神様も自分と似るようにさせたいという観念をもっています。ですから、人は、再び神様と似ることのできる体をもって生まれなければなりません。そ
のように生まれる日を神様も待ち望み、人間も待ち望むのです。そのような人として生まれる日が、死ぬ日です。
このような立場で、人間は、死を歓迎しなければなりませんか、歓迎してはいけませんか。歓迎しなければなりません。死ぬのですが、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためです。神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒きします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内に突入する喜びの瞬間が、第二の出生の瞬間であり、それが死の道を通過する瞬間なのです。皆さんは、死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができません

天聖経7・1・4・18


所長視点)
死に対する観点をはっきり伝え幸せな人生へと導くのが宗教の役割です。日本の学校では教えられません。宗教法人として国が定め、保護する理由は、教義として、学校では教えられないことを教えてる環境をつくることが、日本の国益にプラスになると政府が判断しているからになります

2020年6月12日金曜日

2020/6/12 歓喜の時間

皆さんは、父母から生まれました。根本的な立場で、どこから生まれたのかというと「私」は神様から父と母のおなかを通して生まれました。父と母が皆さんをつくったのではありません。皆さんが生まれたのは「真の父母」を求めていくためです。宇宙の父母を通して、体の父母を通して、真の父母を訪ねていかなければなりません。ですから、死は真の父母に会いに行く歓喜の時間です。
そこには、真の父母の真の愛があります。それを天上天国と言います。そこの構成要素は愛 です。父母の真の愛が満ちあふれたところです。その愛は、奉仕と犠牲の原則を通した愛です。これは一般的な法度に通じます。そこに合格できる人になるためには、万宇宙を「私」が愛さなければなりません。この地上生活は、人類を愛するための試験場であり、訓練場です。これが宇宙の根本です。人間が生きてる時にこのような体験とこのような愛をもって生きて合格していければ、間違いなく神様のみ前に帰るのです

天聖経7・1・4・17


所長視点)
「死」を「歓喜の時間」であるという人生を送るには、どのような生き方をすればいいのか?愛の次元が高まっていけばそのような「死」に対する捉え方ができるようになるのでしょう。希望の時代です

2020年6月11日木曜日

2020/6/11 神様の愛の懐

あ神様が人間の父母であるならば、人間をどのように造ったのでしょうか。愛の神様が人間を造るとき、神様の愛に同参させた位置から出発したというのです。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を形成し、この地上で世界的な愛と連結させることができる成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。

天聖経7・1・4・14


所長視点)

人間の本性は堕落した血統であっても、環境が大変な状況であっても、神様から出発している事実は変わりありません。神様の愛を持っている、という強い自覚が必要です

2020年6月10日水曜日

2020/6/10 人生観を定める

私たちは、知っていようと知っていまいと、あるところに向かって進んでいます。「私」が動く時間にも進んでおり、休んでいる時間にも進んでいます。これは否定できない事実です。一生を経たのちに「私」はどのようなところに行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教も哲学も歴史も、この問題を解決するために動員されています。この問題を解決できなくても、私たちは逝くべき運命に置かれています。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わります。体が埋められるその日は、心も、生命も、心情も、理念も、あるいは願いまでも共に埋められてしまうのでしょうか。この問題に対して、その内容と解決点と、はっきりした目的観を立てておかない人は、不幸な人にならざるを得ません

天聖経7・1・3・14


所長視点)
誰もが避けられない「死」という問題に対して向かい合ったときに、人生観が定まります。そこが曖昧だと生き方も曖昧になります。一番重要な問題に向き合うこと、これが「死」に向き合うことです。原理で一番重要なテーマです

2020年6月9日火曜日

2020/6/9 霊界の愛の波長

死は第二の出生なので、悲惨ではありません。アダムとエバが堕落していなければ、神様と共鳴圏で暮らしていたはずです。心と体が共鳴するというのです。それで、私たちが地上で愛を中心として生活するようになれば、霊界の愛と同じ波長基準になっているので、地上で暮らしながら霊的世界を感知することができます。
地上で父母から生まれて父母と共に生きながら、父母から学んで地上生活を完成させるとのと同じように、天上世界の愛の母体である神様を中心として生まれ変わり店、天の父母と共に永遠の愛の世界で、内的五官を完成した神様の息子、娘として、神様の友として、神様の体として生きていくのです。ですから、死んでなくなってしまうのではありません。死は第二の出生であり、有限な世界から無限の世界に行くときに境界線を突破するためのものであり、峠を越えるためのものなのです

天聖経7・1・3・8


所長視点)
私たちが求める愛の基準は霊界に行っても通じる基準です。霊界の愛と同じ波長基準をなることが地上生活の目的であるともいえます。霊界の愛の波長は「私の本心」にあります。自分の本心の波長を開拓し発信することが「ために生きる生活」です

2020年6月8日月曜日

2020/6/8 統班撃破

統班撃破は、銃剣で脅迫し、恐喝しなさいということではありません。愛のみ言と愛の実践を通して夜も昼も活動するならば、老人たちがタバコを吸い、酒を飲みながらも、あるいは悪いことをしながらも「うちの息子、娘にもあの人たちを見習わせなければ」と統一教会を褒めるのです。そうすれば、酒好きの悪魔がそこにくっついていても、逃げていくというのです。けんかしていた者たちも、統一教会に入教してからはけんかしないのを見て「うちの息子、娘も統一教会の教会員のようにならなければいけない」と思えば、サタンは逃げていくのです。
すべての面において、原理原則を代表した一つの立て札となり、家庭に先祖の標的を立てなければなりません。先祖の中の先祖が真の父母なのです

天聖経9・1・4・23


所長視点)
韓国で「統」は町、「班」は村のようなくくりです。ようするに地域のまわりながら愛の実践をしていけば、サタンが逃げていくということです。そのときにみ言を語るのではなく、地域の人が困っていることを聞いてあげ、助けてあげる。自分ができる精一杯を真摯に実践していく。これが愛の実践です。

2020年6月7日日曜日

2020/6/7 訓読

先生のみ言は、先生が語ったのではありません。天が先生を通して語られたみ言です。そのみ言は、皆さんがいつどこで聞いても、心が動き始めます。それが違うのです。先生一人ではありません。縦横を合わせたその場で語ろうとしたので、心も体も共鳴体になるのです。振動が起こります。体が振動しても、心が一つになれるので心も振動し、心が感動すれば体に一大革命的変化が起こります。そのような力があるのです。それは先生の言葉ではありません。

天聖経9・1・4・1


所長視点)
家庭教会の中心は訓読です。御父母様のみ言を訓読し、本心を振動、共鳴させていくなかで、真の愛の波動が私の実体を通して家族に地域に広がっていきます

2020年6月5日金曜日

2020/6/5 天の父母様の夢

家庭教会とは何でしょうか。家庭教会は統一教会が迫害の歴史において、先生を中心としてすべての歴史的蕩減基準、すなわち個人蕩減世界的基準、家庭蕩減世界的基準、民族蕩減世界的基準、国家蕩減世界的基準、天宙蕩減源世界的基準の蕩減路程でチャンピオンの継承権を勝ち取り、全体に勝利したサインを受けて決定してきたものです。家庭教会においてのみ、すべての蕩減条件を払って定着できるのです

天聖経9・1・3・19


所長視点)
アダム家庭に安着することが天の父母様の夢でした。それをご父母様が生涯をかけて蕩減をされて、立てられたのが家庭教会になります。それを誇ることが孝子孝女の立場になります

2020年6月4日木曜日

2020/6/4 肥料

先生が悲惨な歴史をすべて経て、人間に対して最高に簡単で強力に提示することができ、サタンと神様のみ前に提示できる一つの条件として立てたのが家庭教会です。家庭教会は、皆さんが倒れれば起こし、難しいことがあればすべて慰労してあげられる場であり、皆さんが責任分担の過程を何事もなく通過できる自然な環境だというのです。また、その中には迫害するものがあるかもしれませんが、環境全体が迫害する時代を越えて歓迎する時代の境界線からこれを出発したというのです
そうして、皆さんがここで勝利することによって、先生と神様が6000年間願ってきたすべての理想の基地が確立されるというのです。皆さんは今、先生に接ぎ木するのです。そうすれば自動的に成長します。それでは、成長するために必要な肥料は、どこで手に入れるべきでしょうか。反対してきた家庭教会のすべての地域で、大きな木として育てられる肥料を得るのです。皆さんには肥料が必要です。そのような種類の肥料をどこで手に入れるかというと、迫害から手に入れるのです。それが肥料になるのです

天聖経9・1・3・16


所長視点)
家庭のなかの問題、親戚の問題、地域にでていったときに出会う問題はすべて肥料です。それを肥料として、大きな木になっていきます。そこにはすべてのことが慰労されていく天国になっていきます

2020年6月3日水曜日

2020/6/3 孝子孝女の道

今、先生が皆さんを取り戻すために働いてきたことを理解し、皆さんも家庭教会を訪ねていき、先生が皆さんにしたのと同じようにしなければなりません。それでこそ、天が孝子という名で印を押し、天の国に連れていくのです。ところが皆さんは、先生にばかりついて回ろうとします。「家庭教師は嫌だ。先生の行く所にだけ行く」と言うのですが、それではいけません
人類歴史の最後の路程において、真の父母様の言うことを聞いて基盤を備えれば、神様が「お前は孝子だった」という印を押し、天の国の孝子として天国に送ろうというのです。これがどれほど驚くべき愛でしょうか。その基盤が家庭教会です。皆さんも、天の国に孝子、孝女として行きたいでしょう?家庭教会を通さなければ、孝子、孝女の印をもらう道がありません。天国は孝子が入るところです。息子であっても、ならずものでは入れません。孝子の名をもって行かなければならないので、孝子の名の印を押してもらうためのものが家庭教会です

天聖経9・1・3・14


所長視点)
ご父母様の願いはご父母様に「ついていく」のではなく「自立する」ことです。たとえ規模が小さくてもご父母様の路程を歩むところに、内外の相続がなされ孝子孝女になっていきます。これまではその訓練でした。家庭教会が本番です

2020年6月2日火曜日

2020/6/2 真の家庭づくりと自叙伝

家庭教会は、第一に、子女たちが失敗したことを代わりに蕩減してきた父母様の世界的蕩減路程を相続するためのものです。第二に、イエス様が失ってしまった氏族的メシヤを蕩減することによって、氏族的メシヤ圏から国家、世界まで行くためのものです。この二つを蕩減しなければ行くことができないのです。これを解決するためには、不可避的に家庭教会を経なければなりません。そのようにしなければ、天国に行けません

天聖経9・1・3・7


所長視点)
自叙伝で伝えられるご父母様の歩みは私たちの歩む道を拓いてくださったものです。家庭教会=真の家庭づくり です。夫婦の関係、親子の関係、兄弟の関係、近所、親戚との関係で出てくる問題はご父母様の世界的な蕩減復帰路程を象徴するものです。そのように受入れていく中でご父母様と私との因縁が結ばれていきます

2020年6月1日月曜日

2020/6/1 問題解決の道

これからは迫害がありません。サタンの迫害さえなくなれば、これがすべて簡単になるのです。先生を中心として、個人的にサタンがどれほど妨害しましたか。発展できないようにすべ迫害しました。迫害したのですが、すべて払いのけ、発展してきたのです。家庭的に、どれほど迫害を受けましたか。その次に、氏族的に反対されましたが、これを耐え忍んできたのです。
このように闘って勝利した父母様のすべての偉業を相続するという自負心を持たなければなりません。そのようにして世界を一つの世界に追い立てていかなければならないのが皆さんの責任です。先生は実体蕩減をしてきましたが、皆さんは条件蕩減をするのです。その条件的な運動が家庭教会運動です

天聖経9・1・3・3


所長視点)
私の家庭の問題解決する道が家庭教会にあります。地域の方々、親戚の方々の問題を解決する道が家庭教会にあります。そのためにはまず、地域の人や親戚が何に困っているのか?それを知らなければ話になりません。御言を伝える前にそのコミュニケーションが必要です

2020年5月31日日曜日

2020/5/31 御父母様の路程を学ぶ意味

先生は蕩減路程を歩むのは、個人のために歩むのではなく、全世界の男性を代表した立場で歩むのです。その次に、全世界の家庭を代表した、妻に対する夫の立場で歩むのです。全世界を代表した父母の立場で歩みます。それで、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を代表し霊界まで代表します。そうして、愛を中心として神様が解放の旗を揚げる時まで行こうというのです。
ですから、決定的な勝利としてこれを縮小させ、これから統一教会に従う人たちが先生のように悲惨にならないようにするのです。それが神様の願いです。先生を苦労させたのですが、その苦労を短縮させ、このような悲惨な運命を一時に一か所で、世界を代表して越えられるところがあれば、どれほど良いかというのです。それが神様の願いであり、先生の願いであり、皆さんの願いです。そのような願いの基準を生涯の目標、摂理の目的地として定めているのです。こうして現れたのが家庭教会です

天聖経9・1・2・9


所長視点)
御父母様の路程を学ぶ目的は、家庭教会を通じて地域を天一国化するためです。地域を天一国化して、天の父母様が思う存分共に生活できる環境を創るために、必要な智恵と方向性を御父母様の路程を通じて学び、実践する。その経験が御父母様と私の関係がさらに深まる要素になります

2020年5月30日土曜日

2020/5/30 サタンが活動できない所

天国はどこにあるのでしょうか。「心にあり、私にある」と結論を下さなければなりません。心の天国があったのちに、体の天国がなければなりません。体の天国があったのちにこそ、家庭教会、家庭の天国が成就されるのです。その天国は、サタンが讒訴できず、サタンが生きることもできません。サタンの活動が許されない所です。
「天国が私の心と体にある」と言える人にならなければ、環境天国も持てません。家庭教会は、環境を中心とした天国を意味します。家庭教会の基地はどういうものでしょうか。家庭教会の基地が、皆さんの天国として許されるのです。環境とは、家庭教会を中心として国と世界が連結されたものなのです

天聖経9・1・1・19


所長視点)
「心が天国になっているか」「天国が私の心と体にあるかどうか」を問うのではなく、「心に天国がある」「天国が私の心と体にある」という事実を受入れてください、ということです。そうではない、そう思えない理由はたくさんありますが、それを神様が聞きたいのではありません。神様が「天国があるよ」といっているのだから「いま知りました。探してみます」ということが重要です

2020年5月29日金曜日

2020/5/29 お父様が残してくれた宝

先生が統一教会に残してあげた宝があるとすれば、家庭教会です。家庭教会は、先生が一生の間、犠牲の道を歩んで残してあげた宝です。教会員に残してあげられる宝とは何でしょうか。統一教会の権限を天地から、サタンと神様から堂々と相続できるというのが宝です。
家庭教会が完成するときは、統一教会という名称がなくなります。家庭教会未完成圏には神様の摂理があるかもしれませんが、「私」自体で成し遂げられた家庭教会圏内には、神様の摂理や宗教はありません。そこは、天国人が住む所です。それでは360軒とは何でしょうか。それが全人類の理想型と同等になるためには、少なくとも12地域、12ヶ国の民族がそこに集結しなければなりません

天聖経9・1・1・14


所長視点)
ご父母様が歩んで来られた道を家庭教会を通じて相続していきます。家庭にお写真を掲げる、祭壇を築く、敬拝をする、訓読をする、書写をする、家族で集う、食事をする、祈りを捧げる…それが家庭教会の基盤です。そこで溢れた真の愛をどうおすそわけしていく。地域の困っていることに関心をもち、解決できる方法を一緒に考えサポートしていく…これが地域を天一国化していくということで、国家復帰の基盤になります

2020年5月27日水曜日

2020/5/27 希望の道

家庭教会がある所が天国です。歴史的責任を中心として、統一教会は勝利の道を築いてきました。現在、荒涼とした砂漠、地獄のような世の中に、このような道が現れたという事実を考えてみるとき、これは何という生命の道、光明の道、希望の道でしょうか。
この中で神様に出会うことができ、この中でメシヤに出会うことができ、この中で真の父母に出会うことができ、この中でカインアベルが一つになって出会うことができ、失われたすべての恩讐、失われたすべて氏族、失われた全人類を探し出せるのです

天聖経9・1・1・6


所長視点)
家庭教会を通じてすべての悩み、困難が整理されていく時代になりました。それは私たちが願っているような解決方法として現れないことがほとんどなので、不思議な感じですが、ご父母様がともにいて、神様が共にいて、絶対善霊が共にいるところが家庭教会なら、あとはわたしたちの心を開拓していくだけが残っています

2020年5月26日火曜日

2020/5/26 ご父母様が来られる所

先生は、統一教会の教会員に天国の鍵をあげるのです。先生は、死ぬために十字架に行くのでしょうか。死ぬために行くのではありません。希望をもって、より高いところに行くのです。イエス様は、行って帰ってくることができず、何千年の間、来ませんでしたが、先生は、行けばいつでも来ることができ、思いのままに行ったり来たりできるのです。
帰ってきてからは、統一教会を訪ねていくのではなく、家庭教会を訪ねて行かなければなりません。先生が訪ねるべき所は家庭教会ですが、家庭教会は神様が臨在できる所であり、父母様が臨在できるとこであり、息子、娘が暮らせる所、一族が暮らせる所です。家庭教会は、家庭のための社会的事務所です

天聖経9・1・1・3


所長視点)
イエス様は「また来る」と言われて2000年後に再臨されました。それまでは命懸けの信仰をもった人たちのところにかろうじて訪ねてくることしか出来ませんでした。いまはご父母様の勝利圏ゆえに、真の父母様のお写真(真尊影)を掲げている家庭に訪ねてくることが出来る時代圏です。そしてご父母様が語る言葉が、訓読会での御言であり、書写するときの御言です。御言を訓読するとき、書写するとき「ご父母様が私の家に来られて直接語られている」というアンテナを立てて訓読する、書写すればご父母様に直接侍る恩恵が受けられる時代です

2020年5月25日月曜日

2020/5/25 死と永生

「死」という単語は神聖な言葉です。悲しみと苦痛の代名詞ではありません。それで、真の父母様がその単語を「聖和」という言葉に換えて発表しました。地上界の人生を花咲かせ、実を結び、その実を抱いて歓喜と勝利の世界に入る時が霊界入門の瞬間です。喜ぶべき瞬間です。心ゆくまで祝賀し、送り出してあげるべき時です。悲しみの涙ではなく、喜びの涙を流してあげるべき時です。聖和礼式とは、このように神聖で崇高な天の儀式です。神様の懐に入って侍り、永生を楽しむために行く第一歩なのです。新婦が嫁いでいくその瞬間より、もっと胸躍らせて興奮すべき時です。このように貴い永生の門を開いてあげるために、私は、昨年2010年の3月18日、ニューヨークの国連本部で、最近永眠した世界的な平和指導者たちに聖和礼式を施してあげました

天聖経13・4・1・13


所長視点)
この「死」に対する価値観を受け入れるだけでも人生が変わります。死に対する価値観ゆえに多くの人が生き方が定まらないでいます。死と永生の価値観は家庭連合のブランドです。コロナアフターの世界の中心になる価値観でもあります

2020年5月24日日曜日

2020/5/24 心の母、父

祝福は、天地で最も貴いものです。同時に、極めて恐ろしいものです。もし夫婦が、互いに他の事を考えるとすれば、相手を蹂躙することです。皆さんから善の先祖、地、国が生じるのです。ですから、祝福を受けた人は、目を開けさえすれば、天地を考えなければなりません。祝福は人に福を分けてあげるためのものです。夫婦は、お互いに心の母、父にならなければなりません。世の中の人たちが「私たちもあなたたちの家庭のような家庭をつくりたい」と言うようにしなければならないのです

天聖経5・2・2・25


所長視点)
祝福の恩恵を感じ、深めていけばそこから真の愛の波動が拡散していきます。それがまわりに福を分けてあげることであり、あなたたちのような家庭をつくりたい、という思いになります

2020年5月23日土曜日

2020/5/23 心情主義

歴史を見れば、キリスト教を中心として物本主義と神本主義に分かれました。物本主義も崩れ、神本主義であるキリスト教文化圏も崩れて、世俗的な人本主義に降下しました。ですから、神様を中心とした主義がありません。唯物論者と人本主義者たちでは、世界が収集されません。主人は神様なので、その主人の立場から見てこそ収集ができるのです。ある思想をもった権威者がいるとしても、彼が世界を導いていくことはできません。右翼も左翼もできません。それで生まれてこなければならないのが「頭翼思想」なのです。「頭翼思想」は心情主義です。何の心情主義でしょうか。真の子女の心情、真の夫婦の心情です。神様を父母として侍り、その神様と血統的関係を結ぶ家庭環境でなければならないのです

天聖経10・2・4・17


所長視点)
主義というものは生活様式を意味します。どっちが正しい正しくない、の争いから主義を超える。右翼、左翼といった政治的思想もすべての宗教も唯物的な人も人間中心の良心的な人も、神様を中心とした心情でもって引き上げ連結する時代がコロナアフターの世界になります

2020年5月22日金曜日

2020/5/22 大きくなる

皆さんに「教会のために生きなさい」というのは、何のためでしょうか。より大きくさせるためです。家庭の大将になろうということでよいのですか。教会のために生きるのは、私がもっと大きくなるためであり、国のために生きるのも私がもっと大きくなるためであり、世界のために生きるのも私がもっと大きくなるためであり、天地のために生きるのも私がもっと大きくなるためです。どのくらい大きくなるためでしょうか。最高に大きくなるためです。ここで大きいというのは、体積をいうのではなくて、内外に最高の円満さと円熟さを備えることを言います。皆さんはそのような立場で家庭連合を中心として、世界水準の舞台で、万民と共に生きようという人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造された神様の息子、娘になれるのです

天聖経10・2・4・8


所長視点)
ために生きることを通じて心が大きくなります。世界水準で活躍するには、いま世界で起こっていることを自分のこととして受け止めることから始めましょう。そして私の本心は何を感じるのか。そうしたらいくべき方向は定まります。定まらないとしたら、世界をまるごと受け入れる必要があります

2020年5月20日水曜日

2020/5・20 心を主体にする

自分の心と体を、どのようにして一つにするのでしょうか。世界に対する不平を言う前に、世界に対する真の平和を叫ぶ前に、世界に対する真の幸福を叫ぶ前に、皆さん自身を中心として、心と体が一つになって平和の基点を形成しているのか、平和の中心の基点が神様となっているのかが問題です。その基点は、心だけではいけません。神様を中心とした心に一致する体にならなければなりません。このようになったとすれば、神様に従う道が二つにはなり得ません。しかし、堕落することによって、今日、人は二つの道に行くようになりました。分かれるようになりました。そのような結果を見るとき、誤った原因が存在するという事実を否定できないのです

天聖経10・2・2・27


所長視点)
いまの社会や環境に対して意見しても現実は変わりません。自分の心の反映が現実だとすれば、その事実をまるごと受け入れるところから出発する必要があります。そうすることで心を主体にすることができます。

2020年5月19日火曜日

2020/5/19 心と体を一つにするための武器

真の愛なしには、心と体の世界を一つにすることができません。心と体が分立して争っている世界が、まさしく堕落した世界です。心が絶対的に中心でなければなりません。体は、絶対に不平を言うことはできないのです。体は常にマイナスの立場をとらなければならず、心は常にプラスの立場をとらなければなりません。プラスが前に立てば、それは永遠なのです。心の力を中心として、体はその位置に立たなければなりません。そのようにしなければ、この世界が平和な世界になったとしても、皆さんはその理想世界に連結されません

天聖経10・2・2・23


所長視点)
心が主体に立つためには、真の愛が必要です。では真の愛がどこにあるかというと自分の本心です。本心は第二の神様なので 真の愛をもっているのです。本心が分からなくなってしまったのが堕落です。本心をもっていることは自覚していても、自分の本心が神様で真の愛をもっていることを自覚している人は少ないです。本心のパワーが小さいと体の事情に負けて「堕落世界」にハマってしまいます。本心のパワーを強めるのが「御言」であり「書写」です。自分の感情と本心はつながっているので、自分の感情を大切することも有効です

2020年5月18日月曜日

2020/5/18 統一の基盤

統一の基盤の上においてのみ、平和があり、幸福があり、自由があり、希望があります。皆さんの心と体がひとつになっていないのに、そこに自由がありますか。会社に行ったとしても、心と体が世界大戦をしていて定着できていないのに、自由がありますか。自由という言葉自体も嫌うのです。心と体が闘っていて、そこに幸福がありますか。ですから、皆さんも人生問題について悩むのです。これが根本的に大きな問題です。心と体が一つになっていないところに、幸福があり、平和があるのかというのです

天聖経10・2・2・21


所長視点)
心と体が統一された状態は、心が主体、体が対象です。心が主体になるためには、心の中心である本心との関係性を強くする必要があります。第二の神様である本心との会話が祈り。本心が向かう方向を示してくれる「御言」を訓読して本心をつかむ生活をする。お金を献金することで自分の情を神様につなぐ。そのような生活基盤が重要になってきます

2020年5月17日日曜日

2020/5/17 天国の見張り台

神様の根拠地である本心は、天国の見張り台であり、サタンの根拠地である体は、地獄の見張り台になっています。この本心と体が国境線になっています。その国境線で銃声が聞こえてくるのです。それが皆さんの本心の声であり、本心と体が闘う声なのです。この戦争を除去するまでは、神様の息子になることができず、天の国にも行くことはできません。またそのような基盤をもたなければ、天国や理想世界というものが訪れることはあり得ないのです。

天聖経10・2・2・12


所長視点)
本心と体が闘っているという状態は、体が主体、本心が対象になってしまっている状態ということです。不安や恐怖ゆえに心が定まらず、事情や環境、人の行動や言葉に心が奪われながら生活している状態が「銃声が聞こえている状態」です。本心を主体にするには、本心に栄養をあたえる必要があります。それが書写であり、訓読であり、ありがとう です

2020年5月16日土曜日

2020/5/16 闘いの根拠地

心と体の闘いは、核戦争よりもっと恐ろしい戦争です。その戦争には休戦もありますが、ここには休戦もなく終戦もありません。私たちの人生がこの地上に存続し始めたその日から終わる時まで、私たちの心の底では休戦もなく、戦争が続けられているのです。このような人々が家庭を形成し、氏族を形成したので、一層闘うようになり、このような民族と民族が合わさったので、もっと闘うようになり、国家と国家が闘うようになりました。今までの人類歴史は、戦争につながった歴史でした。一日として戦争のやむ日はありませんでした。その闘いの根拠地は、心と体です。心と体が闘いの根拠地となって、個人、家庭、氏族、民族、国家がそのようになったのです

天聖経10・2・2・7


所長視点)
心と体の闘いは核戦争より、コロナウィルスよりも恐ろしいものです。闘いの中心テーマは「不安と恐怖からくる関係性の分断」です。関係性が分断されると堕落性が発動されます。思い込み、誇張が増幅され、すべてが自分にとって不利益のように感じていきます。そこから具体的な傷つけあうようなことも起こってきます。そこを越えていく道を拓いてくださった方がご父母様になります。素晴らしいですね

2020年5月15日金曜日

2020/5/15 心の自由

宗教は、個人の生死の問題を決定するものです。私が死ぬか生きるかという問題、私の心と体の平和の基準、私の心と体の解放的自由権をもつことが問題です。それが解放された立場に立ち、自主的な自由権を探し出してこそ、社会解放、国家解放、世界解放があるのです。そこには理論的な矛盾がありません。ところが、心と体が互いに毎日のように闘うのに、自由を見いだすことができるかというのです

天聖経10・2・2・2


所長視点)
いま時代は心と体が闘わない時代、心と体が一体となった時代がやってきました。自分の心は、今までの自分の人生の集大成です。その心が天の父母様が誇りたい心であり、その心をもって多くの人を救いたいと願われています。いつまでも自分の心をダメ出ししてないで、天の父母様が見つめる視点で自分の心を見つめ、扱っていきましょう

2020年5月14日木曜日

2020/5/14 神様を主張する

平和の起源、幸福の起源はどこに立てるのでしょうか。今、自分自身を中心として、「私は自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれた」ということを発見すれば、宇宙のすべての難問題は解決されるでしょう。堕落の原因は、アダムとエバが自分の自覚と自己主張をしたところにあります。神様のために生き、神様を主張しなければならないのに、反対になったというのです。ここにおいて、皆さんに一つの公式を提示することができます。ために生きるところでのみ、真の理想と幸福と永遠の世界が存続するというのです

天聖経10・1・1・24


所長視点)
わたしたちが抱えているすべての問題の本質は「ために生きる」ことで解決するということはありがたいことです。 相手の利益に気を配ること、相手の弱点を守ってあげること、WINWINは忘れて、相手の喜びこそが自分の喜びであることに100%集中すること。問題があるということは、まだために生きれる余地が残っていることを教えてくれているのです。本当にありがたいですねー





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2020年5月13日水曜日

2020/5/13 幸福の原則

相手のために生きながら暮らしていこうという原則さえ掲げていけば、家庭では平和の家庭、自由の家庭、幸福な家庭、愛の家庭、社会でも平和な社会、自由な社会、幸福な社会が形成されるでしょう。国家と世界でも同じです。いかなるところでも、この原則を中心としていけば、幸福と自由と平和と愛が宿らざるを得ないという結論は当然なのです

天聖経10・1・1・22


所長視点)
相手のために生きるということは、相手の利益に気を配ること、相手の弱点を守ってあげること、WINWINは忘れて、相手の喜びこそが自分の喜びであることに徹すること。100%集中することです。その生き方ができれば、家庭も社会も国家も世界も幸せになる。それを証明するのが私たちの責任ですー

2020年5月12日火曜日

2020/5/12 私の価値

自分自身というものは卑しいものだと思っていましたが、私たち個々人によらなければ神様の愛を完成させることができないという事実、「私」自体でなければ、神様の理想を成就させることはできないという事実、神様の幸福と神様の平和を完成させるには、人間でなければならないという明確な事実を、今まで知りませんでした。不足な私ですが、神様の愛を完結させ、理想を完結させ、神様の幸福と平和を完結させることができる高次元的な価値の存在なのです

天聖経10・1・1・21

所長視点)
神様を幸せにできるのは「私」しかいない。神様と「私」は運命共同体であるという事実が統一原理の根本です。私が「ために生きる」存在になっていけばいくほど、神様と私は幸せになっていきます。「ために生きる」とは自分が受け取るもの以上に与えることができるか、です。これが愛の原則です





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2020年5月11日月曜日

2020/5/11 平和の起源

何を中心としてこの世界を収集するでするのでしょうか。今日、これについて、歴史家たちも主張し、現在の知性人たちも主張していますが、まず世界を指導できる人が必要です。それでは何を指導するのでしょうか。経済力を中心として指導できる能力のある人はいくらでもいます。政治的な立場を中心として指導できる能力のある人も、いくらでもいます。お金がなくて、それが出来ないのではなく、政治体制がなくて、それが出来ないのでもありません。神様と神様の理想に通じる愛の秩序がないのです。本然の愛の秩序が世界的基盤の上で成長する真理を模索できるならば、そこで初めて平和の起源ができ、人間の本心が安息し始めるのです

天聖経10・1・1・12


所長視点)
本然の愛の秩序とは「神様が真の父母であり、私はその子女である」「本心が第二の神様であり、真の愛の起源であり四大心情圏の起源」ということです。その愛の秩序を世界的基盤に拡大させた真理が「天の父母のもとの人類一家族世界実現(One Family Under God)」です。それを受入れている私たちが平和の主人として、自分の立場から発信していく。それが父母様の願いです

2020年5月10日日曜日

2020/5/10 新しいタイプの人間

今日まで人間は、輝かしい科学の発展を遂げることによって、創造的な生活面においては神様に似るようになったということができますが、愛の生活においては、全く神様に似ることができていません。ですから、悲しみと苦痛と不幸が継続しているのです。愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福もまたありえません。ここから数々の悲惨な光景が展開するようになるのです。
神様も人間も、神様に似た理想的な生活、理想的な世界を願っています。神様が願い、人間の本心が願う理想的な人間は、創造的であると同時に、神様を中心とした愛を実践する善の人間です。また、神様と人間が望む理想的な世界は、環境を改善する創造的活動がなされながら、個人と個人、国家と国家の間に愛が満ち溢れる、大調和の統一世界です。このような新しいタイプの人間が、新しい統一世界で生活するようになる時、長らく人間を困らせてきた一切の悲しみ、苦痛、争いは、初めて永遠に跡形もなく消えるようになるのです

天聖経10・1・1・11


所長視点)
理想の世界は調和の世界です。調和は創造的な人、善をじ実践する人によって創られます。創造的な人になるには「振り返りの質が高める」、善を実践する人は「心を主体にする」。この2つの訓練をすることがポイントです。2つの訓練をした新しいタイプは、家族、社会、国家、世界の問題を解決する平和を創り出す人「Peace Maker」になります。Peace Makerを育成する場所がMCのですー





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2020年5月9日土曜日

2020/5/9 真の平和

歴史始まって以来、人類は、平和を念願してきましたが、この地には、依然として戦争が存続しています。不幸にも、強大国や権力者たちは、時として「平和」という言葉を誤用してきました。彼らは、平和を語りながらも、実際には、人々を平和でないものによって苦しめてきました。特に共産主義者たちは、挑発しながらも「平和」という言葉を口癖のように使ってきました。
このように「平和」という言葉は、不義を実現する手段として何度も利用されてきたのです。真の平和は、知識や富、そして社会的地位や政治的権力のような外的な条件にかかっているのではありません。世の中では、世界的関心事を公平に判断する絶対的基準がないので、変化する世界の中で衝突する利害関係に縛られ、真の平和の維持が不可能なのです。真の平和は、真の愛の基盤の上にのみ立てられるのであり、愛の関係は、人類を一つに結ぶ神様を中心とした絶対価値を理解するときにこそ、体験することができるのです

天聖経 10・1・1・3


所長視点)
平和の基盤は神様と愛が土台です。「神様=天の父母様」「愛=真の愛=四大心情圏=家族愛」であると原理で語られています。いまこそ天を父母様を中心して、四大心情圏を実践している私たちが平和の文化を発信するときだと感じます






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2020年5月8日金曜日

2020/5/8 世の光

今、この世界における最も緊迫した課題とは何でしょうか。世界戦争は始まっても終わります。国家間の争いも終わりの日になれば終わるのですが、永違に続く戦争は、心と体の闘いです。心を中心として体を完全に征服する、そこに平和の基準があるのです。父母が永遠に一つになり、夫婦が永遠に一つになり、父子が永遠に一つになり、一族が永遠に一つになる平和の基地ができるのです。その平和の基地が個人を越えて、氏族を越え、民族を越え、人種を超えて、世界の果てまでできてこそ、世界平和が実現されるのです。ですから、人間改造革命が必要なのです

天聖経 10・1・1・1


所長視点)
イエス様は「世の光となれ、地の塩となれ」と語られました。「Peace Maker=平和を創り出す人」になってほしいのがご父母様の願いです。そのための条件が「心が主体、身体が対象」です。環境や出来事、まわりの人の動向に心が振り回されている状態から、どんな環境、出来事が起きたとしても、全て受けとめ、自分の本心を失わない人が「Peace Maker」です。政治家や知識人が世の中を動かしているのではありません。私たちが世の中を動かしています。いまの世の中の動きは全て、私たちの反映なのですー

2020年5月6日水曜日

2020/5/6 生命を捧げる…

アベルはカインのために死ぬことができ、生命をすべて捧げられる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、カインがアベルの前に絶対屈服しないのです。カインのために代わりに死ねる立場に立ってこそ、帰っていくことができるのです。ですから、イエス様の教えの中に「自分の命を救おうとする者は、それを失い、それを失うものは、保つのである」という御言があるのです。この御言は、アベルにも適用され、カインにも適用されます。アベルがカインを救おうとすれば、自分の命を惜しんではなりません。そのようにしなければ、カインを救うことができないのです。また、カインがアベルに従って行こうとすれば、死を覚悟しなければなりません。そのようにしなければ、従っていくことができないのです

天聖経9・3・6・17


所長視点)
生きる、死ぬを肉的生死として捉えると物騒な感じになりますが、「生命=時間」として置き換えるとどうでしょうか?アベルはカインのために時間をとってあげ優先する(従う)。神様の子女として心を砕いて寄り添ってあげる。それが神様の願いであるとすると「自分は真の父母を知っているから地獄にはいかない」「神様のための時間、礼拝、MCで勉強する、書写をしている…から大丈夫」とはなりません。アベルとカインは運命共同体です。神様の前にも一緒にいくことが復帰摂理の原則です

2020年5月4日月曜日

2020/5/5 新しい生活観

神様が願う観点に立脚して生きた人がどれほどいるでしょうか。ときには、個人的に感情を害し、食口に対して鬱憤を晴らしながら、言いたいことをすべていう人を見かけます。兄弟関係において先に出てきた人が、カインの立場にいることを知らなければなりません。アベルになるためには、カインを救っておかなければならないのです。カインを救っておかなければ、アベルになれません。復帰された長子の立場になれないのです。
そのようにするためには、世の中にいるカイン、すなわちサタン側にいるその兄を復帰しなければならないのです。復帰するのですが、無理やりたたいて復帰するのではなく、自然屈服させなければなりません。新しい世界観を見せてあげ、新しい国家観、新しい生活観、新しい未来観、新しい人格観、新しい血統、新しい心情を見せてあげなければなりません。何か違う姿を見せてあげなければならないというのです

天聖経9・3・6・16


所長視点)
真の父母様を受入れている立場はアベルの立場です。アベルは語るのではなく、自分の姿を見せてあげてカインを復帰することが願われます。そのときは、自分を見せようと意識すれば嫌われます。いつか分かってくれる…と思っていたら分かってくれません。天の父母様に似て成長していく姿であるとき、いつしかカインの心が変化していきます。

2020/5/4 召命された理由

神様は、アベルをどのような場で決定するのでしょうか。サタンの讒訴を受けない場で決定するのです。サタンの讒訴を受けない場とは、どのような所でしょうか。神様と一体になった場ですが、そこは喜びの場ではなく、最も悲しい場、最も困難な場です。言い換えれば、死のうとする場、最も悲惨な場において、神様と一体になれるのです

天聖経9・3・6・8


所長視点)
いま真の父母様を受入れている立場はアベルの立場です。とすれば今までの人生において、悲しみ、困難、悲惨な立場を通過してきたので神様はアベルの立場として導いてこれたということです。そんなに悲惨な立場を自分自身が通過してこなくても、社会をみて世界をみて心を痛めてきた、そのような神様の立場で物事をみてきた方も、それを条件として導いてきました。どの場面が導かれた条件となっているのか、今まで人生を振り返ってみるのもよいと思います。そこが天の父母様が愛する点になります

2020年5月3日日曜日

2020/5/3 伝道

「私」がアベルになるためには、カインを探さなければなりません。カインを探し出すまではアベルになりません。したがって、私が神様を身代わりする立場で、僕の僕の位置と僕の位置を経て、養子の位置を経て、息子の位置に上がっていかなければなりません。そうしてカイン・アベルを中心として屈服したという条件を立ててこそ、神様のみ前に立つことのできる息子の責任が終わるのであり、その位置でカインが協助する立場に立てば、父母の位置に進むようになるのです。
ですから、皆さんが伝道するのは、第一に、カインをつくるためであり、第二には、アベルの位置を決定するためです。しかたって、アベル的な立場で伝道する皆さんは、神様を身代わりする立場です。また皆さんは、神様を中心としてイエス様も身代わりし、僕の立場は復帰した時代に先祖ができなかったことを身代わりして、復帰していくのです

天聖経9・3・6・6

所長視点)
天の父母様の願いは「アベルの位置に立つこと」と「アベルの位置を勝利して父母の位置に立つこと」です。これが神氏族的メシヤの責任です。御言を分かち合いたい人がいる人は、すでに「アベルの位置」に立っています。そこから息子に位置に上がるというのは、「あなたは私の息子のようだ。そして私の息子よりもっと親孝行だ」といわれることです。そうして始めて御言を伝えることができます。御言を伝え、受入れ、み旨に貢献し、祝福を受けるようになれば、父母の位置に立てる=メシヤの位置にたつ。これが私たちの責任になります。




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2020年5月2日土曜日

2020/5/2 自叙伝と私

アベルは復帰路程において何よりも重要な使命を果たさなければなりません。アベルという存在がみ旨の前に設定されたのは、堕落のゆえです。もし堕落がなかったならば、アベルという存在がみ旨の前に設定される必要がありません。アベルが一人でいては、アベルを設定できません。カインがいなければアベルになれないのです。またアベルが真のアベルとして設定される位置に立つまでには、準備期間が必要です。言い換えれば、天の側に立つか、立てないかという期間が必要なのです。「統一原理」では、それを「信仰基台を立てる期間」と言いますが、その期間は祭物を捧げる期間です。祭物を捧げるのは、分かれた神様と人間を、再び心情的に紐帯を結ばせ、外的にも紐帯を結ばせるためなのです

天聖経9・3・6・3

所長視点)
神様の願いは「勝利したアベルになってほしい」この一点です。勝利したアベルの道をいかれたのが真の父母です。私たちは、自叙伝もそのような視点で読むことが必要だと感じます。そうでないとご父母様の素晴らしさは伝わってきても、真の父母様の歩みがすごいほど「自分にはできない」となります。そのまま歩めといわれているわけではなく、自分が神様の願いに立ったときに、行くべき方向、いろいろな悩みを抱えたときの道を拓くための歩みが自叙伝に顕されています。そして私たちが今までアベル立場ゆえ苦労してきた歩みとご父母様の歩みが共鳴して涙ができるのです




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2020年5月1日金曜日

2020/5/1 アベルカイン原則

カイン・アベルの論理は、偉大な論理です。神様の真の愛は、自分の子女を犠牲にしても、国の若者のために祭物にすることを願うのです。そのような神様の心があるので、そのような世界においてのみ統一が起こります。ために生きる愛においてのみ統一は起こるのです。ために生きない愛にはサタンが行き来し、破壊が起こります。
神様の願いがそうであり、万物の願いがそうであり、人間の願いがそうだとすれば、三代理想圏の願いをもって生きようという人がいるとき、滅びることがあるでしょうか。訪ねてくる天運はその人を保護し、天運だけでなく神様が保護し、万物がその人についていくのであり、死の場に行っても、死なないというのです。死にそうであり、なくなってしまいそうなのに、そこから新しい道に跳躍していける発展の道を歩むというのです。真の愛の道を行くにおいては、妨害し塞ぐ何ものもありません。サタンもここに屈服するのです

天聖経9・3・6・3

所長視点)
心を主体としていこうとすればカイン圏が現れます。神様の前に供え物を捧げれば、カイン圏が現れます。それが復帰摂理であり、アベル・カイン原則です。神様の前に正しく立てば、反発する勢力が現れます。カイン圏を受け入れ、それでも自分の位置を離れずにいけば神様が保護し、万物が引き寄せられてきます。そして次の次元へと跳躍します。それが発展の原理であり天国を創っていくということになります

2020年4月30日木曜日

2020/4/30 伝道しよう

信仰生活は副業ではありません。本業の中の本業です。人に会っても「私」が会うその人に今、御言を伝えなければ、その人が帰る途中でどうなるか分からないです。その人がほかの人でなく、自分の父母や兄や姉だと考えなければなりません。機会を逃したときは「み言を伝えなければならないのに、私が忙しくて申し訳ない。いつかもう一度会いましょう」と挨拶だけでもして、条件を残していかなければならないのです

天聖経8・2・6・4


所長視点)
伝道というのは「み言を教える」のではなく、信仰生活をするなかで、またみ言を受けて自分自身が感じたことを「分かち合う」ものです。その積み重ねが信頼関係を築き、私の言葉を通じて神様がその人を伝道してくれるのです。そう考えると私の生き方が一番重要になってきます


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2020年4月29日水曜日

2020/4/29 天の父母様教団

宗教を中心とした既存の価値体系は、なぜ崩壊していったのですか。それは、宗教自体が本来の任務を忘れたまま分裂と紛争がやむ間がなく、それで現実に対する指導力を喪失したからです。既存の宗教は、神様と人生と宇宙について明確に教えられなかった結果、善と悪、義と不義の区別をはっきりさせることができませんでした。特に神様の存在の有無に対する質問に、明快な答えを与えることができませんでした。宗教が無力化すると同時に、物質は、人間の前に手段ではなく目的と化し、享楽にふけるのが当然のこととなり、人間性は肉欲と物欲によって麻痺し動物化したので、このような土壌の上に真の愛と奉仕、そして義や神聖さなどの既存の価値観は存在し続けることができないというのです

天聖経8・2・5・14

所長視点)
お母様が「天の父母様教団(Heavenly Parent Church)」を宣布された目的は、すべてを一つにする中心は「天の父母様」であり、既存の宗教、思想において足りないものを明確に示し、補い、飛躍するために宣布されたのだと感じます。家庭連合も同じです。神様と人生と宇宙について明確に教えられているのか?自分自身が伝えることができるのか?自分で伝えるより、教会の連れてくる、映像をみさせることを優先して伝えることを放棄しているとすれば、現実に対する指導力は失われていきます。
国家復帰をするほどの指導力をもつためには、一人一人が発信する。発信の質をあげる、発信する対象を増やすことがポイントです。そのために与えられた天の賜物がSNS環境です。
MCは皆様の発信力UPにも寄り添い、サポートします。

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2020年4月28日火曜日

2020/4/28 善の人

どの宗教を見ても、その宗教内には苦行しない人がいません。そのような宗教であるほど、高次的な宗教です。この世を完全に否定した立場から出発してこそ、完成されます。真の宗教は、全体を否定しながら進んでいくようになります。世の中が考えることとは違うというのです。真の宗教は、世の中のことを肯定するところから出発するのでなく、否定するところから出発します。否定のどん底から肯定の要件を形成させて、自己主管圏を立てていかなければなりません。ここにおいて、心を中心として再創造されたという価値をもつ存在になる時には、善の人になるのです

天聖経8・2・5・10

所長視点)
信仰生活は犠牲の道ですが、犠牲の道で終わるのではなく、その中から肯定できる自分をみつけて 、心の中に天国を創っていくのがいまの時代です

2020年4月27日月曜日

2020/4/27 欲望を治める

私たちは24時間を治めなければなりません。時間を治めなければなりません。愛は時間圏を治める立場に立たたなければならないのです。その次には、行動を治めなければなりません。愛は、行動を治める以上の立場に立たたなければなりません。時間を治めなさいというのは、睡眠を治めることです。行動を治めなさいというのは、御飯を食べることなど、あらゆる欲を治めることです。そして情欲を治めなければなりません。愛は、その上にあります。その次には、物欲を治めなければなりません

天聖経8・2・5・9

所長視点)
『治める』というのは、自粛する、我慢するということではなく、より大きな目的のために価値を発揮させる=主管する、ということです。情欲を治めるということは、真の夫婦になるために、相手を高める立場で情欲の方向性を定めていく、ということになります。睡眠を主管するのは睡眠する時間を定める、起きる時間、寝る時間を予定する、睡眠時間の質を上げてより身体と脳をリセットする、そして次の日にみ旨のためにパフォーマンスをフルに発揮できるようにもっていくことを『治める=主管する』といいます。
ご父母様の勝利圏が安着される前は、サタンの働きにより、創造本然の『治める=主管する』が私たちには出来なかったので『分別する。欲望と立つために身体を打つ』しかありませんでした。がいまの時代は創造本然に主管を開拓し、体恤していくときです

2020年4月26日日曜日

2020/4/26 御言の核心

愛は唯一のものです。一つしかありません。唯一のものであり、絶対的なものです。そのような愛を願うので、妻に接するとき、絶対『性』をもって接しなければなりません。妻に出会うことによって、天国が私を訪ねてくるようになります。そのようになっています。男性がいくら苦労しても、愛の道を訪ねていき、愛の正道に従わなければ、天国に行くことはできません。そのような天国を『私』に紹介するために訪ねてきた方が、妻という人であり、夫という人です。その二人が仲たがいする日には、天国が壊れていきます。私たちの人生の本然の理想と夢にひびが入っていくのです

天聖経8・2・5・6

所長視点)
ちょっと過激な言い方をすれば、絶対性というのは、結婚する相手に『私の生殖器は一生涯あなたのものです』と神様の前に誓うことです。その日を迎えるまで、捧げるべき大切なものは人に見せず、大切に管理しておく必要があります。それが純潔であり体の修練でもあります。絶対性の生き方から天国が出発し、世界平和が出発します。絶対性が御言の核心中の核心です

2020年4月25日土曜日

2020/4/25  堕落しなかったときの良心基準

サタンは死亡の障壁を立てています。その下に敷かれているのが私たちの体です。神様のみ前に恩讐となったサタンは、本来、天使長です。神様が主体であれば、天使は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴するので、サタンは人間の体を足場として活動しているのです。それで、どの宗教も体を打つのです。どこかの国家や何かの主義を征服するのではなく、体を征服するのが宗教の目的です。そして、本然の良心基準に立って行こうとするのです。体が求めるあらゆる条件を無視して心の門を開き、アダムとエバが堕落せずに上がっていかなければならなかった良心基準に到達するようになるときに、初めてら平和が始まるのです

天聖経 8・2・5・2

所長視点)
心の門を開き、本心を育むその刺激は、男女が愛し合う刺激を超えていきます。その基準から本当の平和な世界が始まります。
いまの新型コロナウィルスによる様々な事情に振り回されたとしても、それ以上の心の復活が、アダムとエバが堕落せずに上がっていったときの良心基準ではないかと感じます

2020年4月24日金曜日

2020/4/24 公的な祈り




自分の思いを中心として祈ってみなさいというのです。いくら夜を明かして祈っても、神様とは関係がありません。一生を否定し、一生をつかみ、その一生のために行かなければなりません。例えば、家庭を否定し、国を抱きなさいというのです。より大きなもののために生きること、それが公的です。そしてこそ残るのです。自分の欲望を中心として、家庭を中心としていくこと、それはあとのことです。より大きな目的を中心として行かなければならないのです。


天聖経8・2・4・35


所長視点)

より公的な動機をもつためには、より公的な事情、国のために生きるなら国の抱えている事情をすべて自分のこととして受け入れていく。そうするなかで湧いてくる思いが国のために祈る動機となります。



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2020年4月23日木曜日

2020/4/23 環境を主管する

私たちが行くべき道は、いずれにしろ突破していくべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能です。ですから、信仰者は祈りを捧げなければなりません。個人として神様の御旨と一致する伝統を受け継ぐ道を見出せなくなる時は、彼がいくら努力をし、いくら忠誠を尽くしながら行くといっても、その結果は、必ず神様のみ旨に背く立場に帰結するようになります。そのような観点から、現在の「私」の位置はどれほど重要かということを知らなければなりません

天聖経8・2・4・33

所長視点)
成長は変化であり、自分の責任分担です。環境の変化についていくのではなく、環境の変化以上の成長をしていくことが「環境を主管する」ということになります。環境の変化、時代の変化が著しいときは、自分の成長を促されているように感じます。成長を阻害する要因は「自分の位置」を疑うこと。損得勘定で判断すること。そういう自分に気づけば一気に飛躍します

2020年4月22日水曜日

2020/4/22 自分の言葉は本心につながってますか?

皆さんは、自らの心を通して祈れる人にならなければなりません。皆さんが体を通して表す言葉や行動が、皆さんの心の中心と連結される時、その言葉や行動は、神様とサタン、またはどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としているでしょう。神様は、正にこのような存在を求めていらっしゃるのです

天聖経4・2・4・29

所長視点)
祈りの言葉が、頭で考えたり、習慣性で祈ったりしているとしたら「自らの心」「心の中心」=本心とつながらず祈っているかもしれません。逆に自分の言葉や行動が、ありのままの、本当の自分から出発したものであれば、祈っている自覚がなくても最高の祈りになります。そのくらい「本心につながる」ということが人格を成長させ、神様を中心とした生活をするうえで外せないものとなります。

2020年4月20日月曜日

2020/4/20 背後の生活

祈りは、ご飯を食べることより重要です。ですから、先生も自然を好み、一人で過ごす時間は心が満たされます。静かな夜が本当に好きです。生活の豊かな底辺基盤を築くことができるのは、祈り以外に道がありません。その世界、その場で愛を感じ、愛を体験できるのであって、普通のところでは難しいのです。そのような基盤の上で、自分自体が力を補強できる立場に立ってこそ、皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこのように先生が導いてあげていては、先生がいないときはどうするのですか。そのような背後の生活を備えるためには、祈りが必要です。夜も昼も全体のために祈ってこそ、それが生きた祈りになります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が願う祈りが変わり、題目が変化するとともに発展するのです。ですから、今の時がどんな時なのかを知らなければなりません。そのような背後の生活を、皆さんは、祈りの生活を通して備えなければならないのです

天聖経8・2・4・25

所長視点)
「背後の生活を祈りを通じて備える」 とは、自分の本心と正対する→自分の堕落性を受け入れていく→心が解放されていく→本当の自分がどういう生活を1日、1週間を過ごしたいかを具体的に開拓していく。イメージしていく(内的創造)。そのイメージ世界に愛を感じ愛の体験を感じる。これを背後の生活(内的世界)を祈りで備える(創造する)といいます。そのような祈りで出発した1日が、イメージした通りの1日になっていく。そこに実体的刺激を感じる。これが心と体を一つにするというイメージになります。

2020年4月18日土曜日

2020/4/19 信仰の根っこ

深く根を張った祈りの生活を、たくさんしなければなりません。み旨に徹した生活をしなさいというのです。そして、神様が行かれる道と教会が行く道に、自分がどれほど呼吸を合わせて生きるかを、常に考えなければなりません。そうしようとすれば「教会の便りが気になって死にそうだ」と言いながら、直接、訪ねていかなければ、「電話してでも知りたい」と思う気持ちがなければなりません。そのような心を前面に立てて暮らす家庭なら、神様が共にいない道理はありません。そのような根もないのに植えておけば死んでしまうので、植えないことより良くないというのです。皆さんは、このような原則を知り、生活を再整備して、そのような基盤を築き上げなければなりません

天聖経8・2・4・24

所長視点)
祈りが信仰の根っこになるので、祈りを深めていけばいくほど自立し、神様が共にいる家庭生活が定着していきます。祈りも開拓です。祈りの対象は天の父母様です。天の父母様は私の本心におられます。深い自分自身を開拓するのが祈りであり、その先に天の父母様がいらしゃいます。お空にいて見守っているのではありません

2020/4/18 光あれ

私たちは、外的に伸びていくよりも、精神を統一して内的に深く追求していく道を模索しなければなりません。これが今日、キリスト教でいう「祈りの生活」です。皆さんが目的を立てておき、それを成就させようとする祈りよりも、神様の考えに接して、神様が語りたいと思われるみ言を体恤し、それを実践するという祈りが、より貴重なのです。ですから、祈りを捧げるために、静かなところを訪ねていくのです。
そのような祈りの生活をすれば、形容できない喜びが訪れます。その境地が創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ」という内容もって説明できる立場に立つとすれば、その立場は、正に神様が天地万物を創造された立場だというのです。神様がみ言で被造物を創造された立場です。そのような境地で御言を宣布しなければなりません。そうすれば、人々も必ずそのような御言に触れようとするのです

天聖経8・2・4・21

所長視点)
自分の心と向き合い、一番根っこにいる神様との会話が祈りです。それは自分の心を天国に開拓していく作業です。自分の心に喜びが訪れ、その心の世界がいまの現実を創り出していきます。それは正に天地創造において「光あれ」といわれ、光を創造した。それをみて喜んだ神様と同じ境地になります。そのような生活をしていれば人が寄ってくる=伝道できるようになります。このような伝道を開拓しているのがMCです~

2020年4月17日金曜日

2020/4/17 信仰という条件

天は歴史的に何を通して人間を訪ねてくださったかというと、信仰という条件を持って訪ねてくださいました。天は人間をして、この信仰の条件を立てさせる一方、人間に対して実践を求めました。天と「私」が関係を結び、悲しみの心情を除去することのできる一つの足場を立てるためには、信仰を中心として一つの実践的な行路が生じなければなりません。そうしてこそ、歴史的な関係を立てることができるのです

天聖経8・2・4・15

所長視点)
私たちが信仰を立てるということは、「信じる」というより「自分で決める」といった方がわかりやすかも知れません。神様を信仰する、ということは「神様を信じる」というより「神様がいると決める」「神様は私を愛していると決める」こと。信仰していても「信じられない」ことが起こると信仰がブレます。信じれなくなったから信仰しません、となりやすいしそこを無理矢理信じようとする。「神様がいると決める」は生き方のスタイルであり約束です。人がなんと言おうと信じられないことが起こっても、約束は約束です。自分が守れないことがあったら、もう一度、約束すればいいのです

2020年4月16日木曜日

2020/4/16 心の習慣性

神様が私たちの心の中心ならば、その神様が望む目標と、私たちの心が望む目標とが一致しなければなりません。また、心と体が一つになるために、体はこの地の理想的な基準と一致しなければならず、心は神様が目標とする方向と一致しなければなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理念世界は必ず訪れるものなので、「私」の体が生活において善の理念世界と接する関係をもっていなければなりません。心の基準が神様の基準と別れるとき、苦衷が生じるようになり、体の生活基準が世界的な理念と相反するとき、また苦衷が生じるのです。それでは、どこから是正するのでしょうか。それは相対圏ではなく、私自身にかかっています

天聖経8・2・4・13

所長視点)
本心が第二の神様なら、本心をわたしの感情がつながる必要があります。感情が外側の環境圏を刺激されても、本心を主体にして、感情と共鳴させていく習慣性をつけていくのが天国生活を目指すということになります。他人や環境に振り回されるときや、感情が暴走するときに静かに正対し、本心をつかむ。そのような生活を習慣化していけたらとき、心の幸せが訪れます

2020年4月15日水曜日

2020/4/15 天を主体にする

天は生命の主体であり、理念の主体であり、愛の主体であって、私たちの心と体の主体です。ですから、私が天と接触する瞬間には、私の体は自分の体ではありません。私の心は自分の心ではなく、私の心情は自分の心情ではないのです。私の理念は自分の理念ではありません。その時こそ、神様を身代わりした体になるので、万物の主人公になるのです。その時に、私の心が神様と同じ心になるので、私の心は神様を身代わりすることができるのです。その時に初めて私の生命は、万宇宙を動かせる生命の権限を持つのです。私の心情は、神様の心情を身代わりして現れることができ、私の理念であり、父の理念だというのです。それでこそ、私たちの心的な願いのすべての目的が集結するのです

天聖経8・2・4・10

所長視点)
天の父母様を私の心の主体にすれば、すべてが解決していく方向に向かいます。天の父母様を主体にした状況は、行動に優先順位が天の父母様が優先される状況です。1週間の出発の日に礼拝を捧げること、1日の出発の朝に、祈祷し訓読して出発すること、十一条件、月例献金を捧げること、食事の前に祈祷することなど、最初の時間を天の父母様から出発させることが、天の父母様を主体にした生活に習慣づけられていきます。その主体、対象の位置関係が定まると情関係が結ばれていきます

2020年4月14日火曜日

2020/4/14 分かってほしい

私たちには心があります。その心は、より大きな理念に向かって、寝ても覚めても時間と空間を越えて、「私」をある方向に押し出そうとしています。しかし、このような動きが連続する歴史とともに動いていこうとする事実を感じながらも、そのような面を持っている自らを解明できずにいます。皆さんは、自分を分かってほしい、自分を信じてほしいと言いたいでしょう。そして、私が考え、私が主張するすべてのことが、そのある動きと関係を結ぶことを願いながら今まで生きてきたという事実も、否定できないでしょう。それでは、私を信じ、私を分かってほしいと求めるとき、自らを確定して、天倫の大きな目的と関係を結んだ立場に自らを立ててから、そのような要求をしたかというと、そうではありません。
天は天倫の目的を成し遂げようとされますが、自らがそのようにすることができなければ、天のみ前に堂々と立つことはできません。天倫の前に頭を上げることはできないというのです。

天聖経8・2・4・9

所長視点)
公的に生きてたとき、それが否定される出来事が起こると「分かってくれない」「どうせ‥」という思いになります。そういうときにもう一度、
自らを確定する=自分は神様も子女である
天倫の大きな目的(創造目的)と関係を結んだ立場に自らを立てる=より大きなみ旨を主体に立てて、対象になっている
を確認する必要がある。どこかに、自分を主張する心がある、それは否定した人の行動をみれば分かるようになってます

2020年4月13日月曜日

2020/4/13 天倫の心情

今まで人間は、何を求めて苦労してきましたか。人倫の心の代わりとなる天倫の心情を求めて、その心情と私たちの心が一つになるようにと、今まで骨を折ってきました。一つになったその心は、絶対的な心と関係を結んだので、その心は誰が切り取ろうとしても切り取ることはできません。ですから、そのようにどんな理念と、どんな主義主張をもってしても、消して侵すことができない心を、私たちは、今まで求めているのです。ですから、もしこれを探し出せないとすれば、決して悲しみと悲哀を免れることはできません。

天聖経8・2・4・7

所長視点)
天倫を探し出し、絶対的な関係を結んで歩んできた方が真の父母様です。その歩みを著したのが自叙伝になります。自叙伝を読むとき相対する箇所、部分が自分の中にあるときが、自分の中の天倫の心情を見つけた瞬間になります。
ご父母様の歩みを知って感動するだけではもったいない。自分自身の悲しみと悲哀の人生を整理するために自叙伝を訓読し、自分の中の天倫の心情を発見し、天の父母様と永遠の関係を結んでください

2020年4月12日日曜日

2020/4/12 寄り添いの涙

神様の悲しみを蕩減してさしあげなければなりません。神様が「私」のために涙を流した代わりに、私たちは兄弟のために、国家のために涙を流し、世界のために涙を流そうというのです。このような責任を遂行する群れが世の中には現れるようになれば、その群れは滅びません。その子孫は、間違いなく発展するでしょう。皆さんの当代には、もちろん悲惨な、歴史的な何かがあるかもしれませんが、今、終わりの日が来たので、当代に二つの世界を侵犯し、一つの世界を建国できる時代が来ることを知り、その時こそ歴史的な時であり、神様のみ前に孝子になることができ、忠臣になることができる時であることを知り、神様を慰める皆さんにならなければなりません

天聖経8・2・3・16

所長視点)
み旨のために流した涙が最高の蕩減条件になります。それは悲しい人の心に寄り添えば、涙がでます。自分のこだわっていた心に寄り添っても涙がでます。これが解放の涙です。その涙が神様が共にいることができる証しになります。神様が共にいれば、和合、統一、すべての難しかったものが一つになっていきます。いい時代が来ましたー

2020年4月11日土曜日

2020/4/11 神様が立ち上がるとき

皆さんが恩恵に満ちて、命懸けで立ち上がれば、神様が代わりにマイクを持って立ち上がるというのです。天使世界も同じです。先生もそうです。ですから、この御言に夢中になって、ご飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れ、生活するのを忘れるほど高揚すれば、皆さんは、誰でも先生がしていたことを身代わりすることができます。この作用が偉大なのです
天聖経8・2・3・11

所長視点)
私たちの責任分担は、御言によって高揚し恩恵に満ちた訓読会をすること。礼拝を捧げること。そしてどんな環境であってもどんなに非難されるような立場にたっても、神様と私、父母様と私の関係性を偽らない。今日一日、真の父母様を誇り愛していく人生を歩むと決める。そうしたら神様も絶対善霊も天使も総動員されて私を支えてくれる。そんな生活を実感する日を重ねていくのが、いまの時代圏だと感じました。
とても恩恵を受けた御言でした

2020年4月10日金曜日

2020/4/10 御言の実体

父母様が残しておいた御言をたどる後世になってこそ、その万国の万人全体が永遠の天上に近い道に接近していくというのです。先祖を尊重し、先祖が残した遺物と、先祖が訓示として残した御言を、世の中で自分が生きることをよりも、表象的でない実象的な主体として、暗い世界の灯台のように見つめてこそ、暗い海の暗礁が幾重にも囲んだ世界を分別していくことができ、自ら解放の道を行くことができます。その灯台を見て、自分の方向を尋ね求めていく道しかありません。その灯台になれる話を先生がするのです。今まで天地を中心として、先生の御言以上の御言を語った人はいませんでした。ですから、この上なく高い心情の世界から芽生えて出てくる、天上の御言として受け入れることができなければならないのです

天聖経8・2・3・8

所長視点)
先がみえない今だからこそ、御言を私の心の灯台として灯すことが必要です。御言を信じる時代ではなく、御言と自分の心を共鳴させていく、その心で生活することが「御言の実体になる」ことです。そのように生活している人に真の愛が溢れていくようになっています。それが社会に国に世界に拡散していきます。そのようにして神様の中心とする世界を創っていくのです

2020年4月9日木曜日

2020/4/9 御言に従って生きる

先生が神様の御言で生きたので、皆さんも神様の御言で生きなければなりません。皆さんは、先生より何倍も熟達できるように、御言を読んで、また覚えて行わなければなりません。そうしながら「私はこのような道を行かなければならない。父母様が願うことがこのような道なので、このように行かなければならない」と考えなければなりません。そのようにすれば、皆さんがある村に入っていたとき、その村の先祖たちまで来て自分に侍ってくれ「歓喜の同参者になりたい」と思うというのです

天聖経8・2・3・7

所長視点)
御言に従って生きる、ということは、まず御言を読む 、そしてそれをどう生活で実践するかを具体的に考える、実践してみる、実践してみて自分がどう感じたかを自覚する(出来た、出来ないでとらえない)、深く感謝する。これの繰り返しになります。実践は具体的であればあるほどよいです。実践が「愛する、やさしく接する」だけだと、どう行動するのかが曖昧になりやすいです。「ありがとうという」とか「声をかける」とか行動ベースに落とし込むところまで決めておくと、より御言に従って生きるのに近づいていきます

2020年4月8日水曜日

2020/4/8 国境線の放棄

真の愛で恩讐のために行ってあげれば、恩讐の世界を治めることができるようになり、その恩讐の世界がむしろ皆さんを尊敬し、侍るようになるのです。皆さんの子女や父母よりも、周辺のすべての人のために生きてあげ、これ以上ない真の愛を施せば、サタンは自動的に逃げていくようになり、代わりに神様がその場に訪ねて来られて、千倍、万倍を返してくださるのです。
サタンをして逃亡せざるを得なくさせる秘法とは何でしょうか。真の愛でために生き、ために死に、ために愛そうとする真の人の前では、いくら悪辣なサタンでも、国境線を放棄して逃げていかざるを得なくなるのです。逃亡するとしても、国境線を壊してから行くようになっているのであって、そのまま行くことはできないのです。そのようになれば、どんなことが起こるでしょうか。悪魔、サタンが離れていくことによって、地獄の死亡圏に直行していた無数の生命が、180°旋回して天の国に上昇できる永生の道理が広がるのです。このように永生の祝福が下されるのです

天聖経8・2・3・6

所長視点)
受け入れられないことを、全て自分の写し鏡であると深く受け入れていくことが恩讐に真の愛を照らすことになります。そうすると国境線がなくなり、恩讐と思っていたことや人が私たちの最高の友人となり、神様の世界が広がるようになる、これが神氏族メシヤの道です

2020年4月6日月曜日

2020/4/6 ための生きると決める

川の水は、海に向かいます。地上は川の水と同じであり、霊界は海水と同じです。人間は誰でも霊界に行くようになりますが、淡水魚は海水では死んでしまいます。突然入れば、窒息するのです。ですから、慣れなければなりません。家庭連合は、その世界の内容を地上で訓練する所です。真の愛、ために生きる愛の活用訓練をさせる修練所が家庭連合です。ために生きる愛の実体を形成するための修練所です。神様がために生きる愛で生きているので、ために生きる愛をもった場合、どこに行っても歓迎されます。どこに行っても反発がないのです

天聖経8・2・3・2


所長視点)
心の世界が霊界であるならば、心を大切にすることがよりクローズアップされている、いまの時代はより霊界に近い世界になってきたのかもしれません。「ために生きれば幸せになるのですか?」は幸せになるための方法として「ために生きる」なので、「ために生きる」が方法論です。まずは「ために生きる」を人生にする。不幸を感じようが、理解されないことがあろうが、「ために生きる」と決める。「なぜために生きるのか」それは「ために生きると決めたから」これを習慣化したいものです

2020年4月5日日曜日

2020/4/5 習慣化する

ヨハネによる福音書第三章一六節に「神はその独り子を賜ったほどにこの世を愛してくださった」とあります。アメリカを愛し、教派を愛してひとり子を賜ったのではありません。世界のために賜ったのです。それで、先生は、はっきりと教えるのです。家庭連合は世界のために存在し、神様のために存在するのであって、先生のために存在するのではありません。ですから、先生は滅びません。家庭連合は滅びません。神様が保護するからです。
すべての完成は真の愛から始まります。全世界が真の愛を中心として、このような公式を適用して訓練しなければなりません。そのようにしなければ生きていけないというほど、習慣化しなければなりません。世界のどこに行っても、そのように生きなければならないのです。年老いた人を見れば、自分の祖父と祖母のように、父と母の年齢なら自分の父と母のように、自分の相対の年齢なら自分の妻や夫のように、息子、娘の年齢なら自分の子女のように、自分の年齢なら兄弟のように愛さなければなりません。それが習慣化しなければなりません。楽しくなければならないのです

天聖経8・2・3・1

所長視点)
愛の訓練は「無理矢理愛していく」のではなく「習慣化していく」ことです。それは楽しいことです。習慣化していくことは自分の心を育んでいくことでもあり、自分の心を育むことは世界のどんなことよりも「楽しい」ことです。心を育くめば創造性は発揮され、万物を愛で治める主管性が賦与されます。

2020年4月4日土曜日

2020/4/4 犠牲と譲歩

どこで統一を探すのでしょうか。統一は、犠牲になるところ、譲歩するところにあります。そのようにすれば、どこに行っても、3年もせずに一つになるのです。3年を越えて和合投入し、犠牲になって投入すれば、新しい主人が行ったり来たりしながら一つになります。世の中が、大宇宙の真の愛の空気でいっぱいになるというのです。ですから解放圏です

天聖経8・2・2・24

所長視点)

犠牲と譲歩を常にしている…という方は、そこからが勝負になります。そこから「私はこれだけやっているのだから、これはあなたがするべき…」という思いのなかの「~すべき」は固定観念であり堕落性に気づく。これはWINWINの思想であり、この思いの裏には「損得」があります。その思いを否定したり、自虐的になるのではなく、「~すべき」自分ああることを自覚する。そこに真の愛が流れてきます