学んだ価値を通して自らを喜んで「否定」できるのならば、そこから新しい私が創造されてゆきますが、み言を聞いても、自分なりに私を扱ったままだと、内面はそのままなのです。
ではどうしたらいいか。私に対する神様の圧倒的な愛を体験すれば、自分を主張する喜びが消えるのです。その愛で自分をなくしてしまいたいと願うようになるのです。私は神様のものだと。この飲喜の体験によって起こる「自己否定」が、み言の実体化へつながってゆくのです。ですから、その体験を慕い求めながら、私の全ての目的を、まず、そこに置いて、精誠を尽くす必要があるということです。
所長視点)
本来、自己否定は苦しみが伴うものではなく、真の愛によって自然と自分を否定するなかで成長、復活するようになっていました。いまはそのような時代に入っています
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