2020年8月8日土曜日

2020/8/8 神様の愛による「自己否定」

祝福による理想相対の価値に確認し、常に相対と向き合い、接し続けてゆく姿勢は極めて重要です。み言で学んだ価値観で行動できるのは素晴らしいことです。ただ、そのようにしていくなかで、私が成長し、実体になってゆく場合もあれば、そうならない場合もあります。なぜかというと、多くの課題は、み言を「知らない」ことではなく、み言による「体験がない」ことにだからです。「学んで理解して記憶もした」という条件だけでは、成長も復活がないのです。私自身が、そのみ言によって内面から創り変えられていなければ、外的にただみ言に合わせて活動していたとしても、内面では行き詰まってしまうのです。
学んだ価値を通して自らを喜んで「否定」できるのならば、そこから新しい私が創造されてゆきますが、み言を聞いても、自分なりに私を扱ったままだと、内面はそのままなのです。
ではどうしたらいいか。私に対する神様の圧倒的な愛を体験すれば、自分を主張する喜びが消えるのです。その愛で自分をなくしてしまいたいと願うようになるのです。私は神様のものだと。この飲喜の体験によって起こる「自己否定」が、み言の実体化へつながってゆくのです。ですから、その体験を慕い求めながら、私の全ての目的を、まず、そこに置いて、精誠を尽くす必要があるということです。

所長視点)
本来、自己否定は苦しみが伴うものではなく、真の愛によって自然と自分を否定するなかで成長、復活するようになっていました。いまはそのような時代に入っています

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