2020年8月5日水曜日

2020/8/5 私の扱い方

「信仰の出発」をしたということは、「扱い」が変わったことを意味します。その「扱い」は二つあります。一つは「私(自分自身)の扱い」で、もう一つは「人の扱い」です。これらから信仰基台と実体基台が築かれます。
私が何者であるかが確定されてこそ、私の体験が意味することも決まります。人間は堕落によって天との縦的関係を失い、自分が何者であるかが分からないままに、自らの体験の意味を考えてきました。そのため、答えが出なかったのです。
「神様を知った」ということの本当の意味は、「神様の存在を知った」ことではありません。「"私は私ではなかった”ということを発見した」ということなのです。私は主体ではなく、結果的存在、対象的存在であり、その主体者のものであった、つまり、「神様のものであった」という事実を、私が"受け入れた"ということです。そのとき初めて、私自身を"私のものとしては扱わない"という態度が可能になるのです。このようにして自分が否定されるのです。

所長視点)
自分を神様が見つめるように見つめ、扱うのが「自分中心」から「神様中心」に復活する土台になります

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