2020年8月31日月曜日

2020/8/31 心の価値

皆さんの心は父母より先であり、師より先です。その心は永遠に、「私」と共に一つになっています。しかし、父母は永遠に一つではなく、師も永遠に一つではなく、主人も永遠に一つではありません。ですから、心に偉大な価値がというのです。そのため、父母様に尋ねる前に、心と相談しなければなりません。そうすれば尋ねる必要がないのです。それは神様と直結しているので、共鳴圏に入ることによって、体が願うことについて尋ねれば、周波が同じなので答えが来るのです。「あす、これこれこのような人に会いに行くのだが、どうしようか」と心に向かって尋ねてみれば、心は喜んだり、嫌がったりするというのです。行って会うのが良いのか悪いのか、心が分かります。嫌ならば、心が縮こまってしまうのです。 (天聖経4・1・2・27)

所長視点)
心に価値を感じている人は心を大切にします。大切にしている人は心を優先する生活をします。生活で困ったことがあれば、心と相談します。そうすると心の反応で答えを悟ることができるようになります。それが心を主体にする生活、神様を中心とする生活です

2020年8月30日日曜日

2020/8/30 心に対して祈る

祈るときは、心に対して祈らなければなりません。それほど心が願う通りにしたでしょうか。心を後回しにしていくら神様を呼び求めても、通じません。心と一つになってこそ、通じるようになっている神様です。そのため、心の命令を中心として考えなければなりません。いつでも心を見つめて尋ねなさいというのです。父母に尋ねる代わりに永遠の本心に尋ねてみなさいというのです。
師、父母、主人と別れることはできますが、心とは別れることができません。その三大主体に侍って暮らす心を無視するのは、途方もない罪です。父母を無視することであり、師を無視することであり、宇宙の主人である神様を無視することです(天聖経4・1・2・22)

所長視点)
本心は第二の神様です。祈ることも、自分が生活することも、判断することも、心を中心とすることが何よりも重要です。忙しいといって、心が何を感じているのか、尋ねることをせずに生活に追われることは神様を無視することでもあります。そこに天運は訪れないのです

2020年8月27日木曜日

2020/8/27 縦的と横的

人は体と心の二重になっていますが、心は縦的な面を身代わりしており、体は横的な面を身代わりしています。仏教では、参禅を通して、心とは何かを研究してきましたが、いまだに心が何か分からずにいます。心は縦的な「私」です。また体は横的な「私」です。ですから、横的な私と縦的な私が統一される場で、私という人格が完成するのです。何を中心としてこの縦的なものと横的なものが統一されるのでしょうか。共鳴できる本質を通して一つになる所において、完成を論じることができます。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。ただ、神様の真の愛によってのみ共鳴するのです。
(天聖経4・1・2・9)

所長視点)
縦的な世界というのは、見えない世界、霊界を現しています。横的な世界は見える世界、地上界です。霊界に存在している心が、神様の真の愛によって共鳴する、その感動でもって人生を生きれるようになることが、私の責任分担であり、人格を育むということになります

2020年8月26日水曜日

2020/8/26 体がプラスに

心と体を見れば、心は主体であり、体は対象です。この二つが闘うのですが、なぜ闘うようになったのですか。体がプラスになったからです。主体である心の前に、体が永遠な対象にならなければならないのですが、これがもう一つの主体になりました。それが堕落です。 (天聖経4・1・2・4)

所長視点)
堕落によって体が主体になった、という意味は、「本心の衝動」が「生活の事情」に引きずられるようになったということです。「生活の事情」とは、何を食べようか何を着ようか思いわずらうことであり、人間関係や出来事に対して思いわずらうことです。その状態では幸せをつかむことはできません。

2020年8月21日金曜日

2020/8/21 血の代価

先生は、神様を愛し、世界を愛し、人類を愛しました。解放直後に、先生を囚人として銃殺しようとした恩讐までも愛しました。彼の子女が飢えている時、背広から下着まですべて売って彼にあげたあと、何もない中で二週間生活したこともあります。そのときは、着るものがなくて外に出ることができませんでした。それは、ある手段としてそのようにしたのではなく、心からの思いでそのようにしたのです。先生の息子、娘のために、涙の祈りをしたことがありません。涙を流しても皆さんのために流しました。もし、先生が皆さんのために涙を流して生きてきた基盤がなかったならば、神様は役事されなかったでしょう(天聖経3・3・3・35)

所長視点)
私たちが御言を受け入れることのできる条件があるとすれば、ご父母様がサタンに讒訴されない、無条件の愛を注いでくださった土台があるからと言えます。ご父母様の血の代価によってサタンから復帰された私たちです。そのような私を、自分の価値観で扱うとすれば神様は役事できません

2020年8月18日火曜日

2020/8/18 心が難しいときの祈り

・神様の導きに気づけるように求める祈り
「私は相対者との出会いを通して、あなたの願いの中の何を今体験しているのか、あなたの愛の摂理をまだ悟れていません。申し訳ございません⋯⋯。この体験を通したあなたの導きに気づけるよう、私の心を耕してください。そして自分の思いではなく、あなたの願う愛の心に気づけるよう、どうか私を導いてください!」

・神様の愛してこられた相対として愛する祈り
「あなたが幼少から祝福の場まで導き育んでこられた夫(妻)を、あなたは私に委ね、与えてくださいました。感謝いたします。ですが私は今、自分の思いで夫(妻)を扱ってしまいそうです。あなたの大切な息子(娘)です。どうぞ、私の思いではなく、あなたの願う心で愛してゆけるよう導いてください。お願いいたします!」

・感情の中にあっても良心の叫びを報告する祈り
「今、自分の感情と思いがあふれ、夫(妻)を許容する心を持つ余裕がありません。お許しください。ですが、私の良心は夫(妻)と通じ合う喜びを体験したいと叫んでいます。信じてください。どうか真実の私の姿に導いてください。本当は私と通じたいと願って侍ってくれている、相対者の心とも出合えるように、天の父母様⋯⋯⋯、どうぞ導いてください」

所長視点)
祈祷文の内容を見ても分かるように、どんなに困難な中にあっても、祈る前提は、「私は神様のものです」「神様は私に愛の摂理をなさっておられる」という、"神様の愛を前提"に祈ります。

2020年8月17日月曜日

2020/8/17 神様に還る喜び

夫婦、親子は、神様に侍らなければ一つになることができないようになっています。神様のものを愛することは、神様に侍ることと同じです。今は、その喜びを体恤しながら、「神様に還る喜び」を家庭で示し、人々を導く時代です
私たち家庭が神様に侍る喜びの中で精誠を捧げれば、この世には絶対に生じない愛が始まります。「原理」は、お互いの本性を喜ばせ、価値を高め合う喜びの生活を教えています。神様に侍る「復活した生活」を、夫婦が中心になって体験することを神様は望んでおられると思います。

所長視点)
夫婦、親子に限らず人間関係においての神様の願いは、自分の本心と向き合い、相手の本心に寄り添うなかで神様の深い心情に触れることです。その喜びが自分を本然の自分に復活させてくれます。

2020年8月16日日曜日

2020/8/16 神様を中心とする夫婦の関係

統一原理でいうと、夫婦が愛し合うということと、神様に侍るということは、もともと一つのものです。「神様に侍る」「夫婦が愛し合う」を分けてしまうと、神様中心の夫婦愛と、世俗的な夫婦愛との区別がつかなくなってしまいます。神様との関係=縦的な基準なく夫(妻)をみることなしに、この世の風習や、世俗の夫婦愛、親子愛の美談などを、分別なく受け入れてしまえば、神様を中心とする愛の次元が見えてきません。祝福を受けて終わりではありません。始まりです。神様が見たかった夫婦の関係を現す、先祖や絶対善霊の思いを代表して果たす、私の本心が現したがっている夫婦の関係を現していくのが祝福を受けたものの役割であり特権です。その愛でもって神様を知らない人々の悩みを解いていくのが伝道です

所長視点)
基元節(2013年1月13日以降)は本然の時代です。神様に侍ることが夫婦が愛し合うことであり、夫婦が愛し合うことが神様に侍ることです。神様を中心とした愛かどうかは、この世の素晴らしい愛よりも輝いているか、です。昨日よりも今日、本然の愛に少しでも近づいている実感をもった生活をしていきましょう


2020年8月14日金曜日

2020/8/15 自分が強い

信仰や愛が強いのは良いことですが、「自分が強い」いうのは、この道においては障壁が多くなります。恵みを受けたとしても「自分に」受けたと喜んだり、受けた「もの」を感謝したりするのでなく、与えてくださった「お方」を思ったほうが良いのです。私を愛する愛の主体者を思わない生活には本心からの喜びがありません。一般的には、「自分が強い」というのは、たくましく頼もしいという意味を持つようですが、信仰の道においては、「神様を無視している」ということとほぼ同じになってしまいます。自分中心に私を扱っているからです。

所長視点)
世界の中心に自分を置き「私が」「自分が」と主張しているもの、「他人」の非を責めているもの、それらは自分中心の意識から生まれている心の声です。思い悩むほとんどが「こだわり」「執着」であったり「自分なりの主張」「妥協」です。それらに気がつかず「当たり前」の状態になっていることが、本心の喜びのない生活になります。本心の喜びは「細胞も髪の毛も喜びで踊りだす」感覚だそうです

2020年8月13日木曜日

2020/8/13 愛の基準

神様が私たちに愛を与えてくださるとき、どのぐらい与えたいと思われるのでしょうか。「これくらいならいいだろう」という限界を引く愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様は、すべて与えても「あなたと共に、あなたの中で生きたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質が愛です。神様も愛の中に入って僕(しもべ)になってもいいというのです (天聖経3・1・1・9)

所長視点)
愛の基準は神様にあります。神様の愛の基準をして「足りない自分」を自覚すると共に「こんな愛を自分が育んでいける喜び」にあふれて生活する、神様の愛を自分の中に発見する生活が天国生活です

2020年8月12日水曜日

2020/8/12 夫婦関係を神様に捧げる

「私は、この方のために神様が願っておられた、祝福の相対の姿として、ふさわしくあるだろうか?」と感じながら、悔い改めや感謝の心で相手を愛してゆけば、神様を愛していることになります。夫婦で向き合って手を握りながらも、お互いが神様に侍る関係になっていきます。
また、相手を見て感謝できることがあれば、その思いを相手に向るより先に、まず神様にお返しするのが良いのです。それは相手を無視しているわけではありません。相手は神様のものなので、相手を貴く思えば思うほどそうしたくなるのです。
このように夫婦の生活は、神様に侍る生活になります。私が相手の扱いを神様を中心としたとき、夫婦の関係性は神様に捧げる精誠となっていきます。

所長視点)
いままで、夫婦が仲良くすることが神様が喜ぶことだと思ってきましたが、神様の視点で相手をみる、感じる、神様に捧げる関係性こそが神様の願いであり、私たちの求めていた幸せであることを実感する生活になります

2020年8月11日火曜日

2020/8/11 神様に触れる

例えば、妻が夫に触れるとき、"夫を幼少期から、両親の背後でずっと見守り、育んでこられた神様"のことを思いながら触れてみてください。夫の手を握りながら、"一人の男性をここまで導くために苦労した神様"のことも考えてみるのです。手で触れてみた感触から、「本当に苦労をかけてきました。神様が大切に育て導いてきた男性を、私は本当に神様のものとして、大切にしてきただろうか」と、深く考えてみるのです。このような態度に対して、神様が「ノー」と言われるでしょうか?

解説)
今までと同じよう手を握ったとしても、神様を中心として、神様の視点で手を握ってみたときに育まれる愛があります。これが神様が体験してみたかった愛です。そのような生活を侍る生活といいます

2020年8月10日月曜日

2020/8/10 花の中の神様

神様の愛を慕って自分がない人は、花が美しいと感じたときに、その中に神様を見ます。なぜかというと、花の美を通して神様と関係を結ぶことに大きな喜びを見いだしているからです。花の細部にまで宿る神様の無限の投入を感じながら「神様、私もあなたを愛してます」というように「神様から愛される喜び」と「神様を愛する喜び」を同時に感じることができます。
同様に、価値ある理想相対といえども、相手のことを平面的に見れば、神様はどこにも見えません。夫婦で手を握り合い、「祝福を受けた夫婦は仲良くしなければならないので、今、一応、手を握っています。み言で教えられたからそうしています」「若い時より、肌触りはガサガサしていますが、愛さなければならない相手ですよね。よく分かりますが、暑いので手を離しても良いでしょうか」と言うような、形だけの接し方を幾ら繰り返して
も、可能性がありません。祝福を受けたとしても、神様の視点で相手を見なければ、相手を、そして自分自身をも、ぞんざいに扱っているからです。

所長視点)
夫婦で愛するのでも、まずはかたちから入るのは必要です。その上で「神様の視点」で相手をみることを通じて、神様の愛を授け受けすることができるようになっていきます。そこに相対から、創造本然の価値を見出すことができるようになっていきます

2020年8月8日土曜日

2020/8/8 神様の愛による「自己否定」

祝福による理想相対の価値に確認し、常に相対と向き合い、接し続けてゆく姿勢は極めて重要です。み言で学んだ価値観で行動できるのは素晴らしいことです。ただ、そのようにしていくなかで、私が成長し、実体になってゆく場合もあれば、そうならない場合もあります。なぜかというと、多くの課題は、み言を「知らない」ことではなく、み言による「体験がない」ことにだからです。「学んで理解して記憶もした」という条件だけでは、成長も復活がないのです。私自身が、そのみ言によって内面から創り変えられていなければ、外的にただみ言に合わせて活動していたとしても、内面では行き詰まってしまうのです。
学んだ価値を通して自らを喜んで「否定」できるのならば、そこから新しい私が創造されてゆきますが、み言を聞いても、自分なりに私を扱ったままだと、内面はそのままなのです。
ではどうしたらいいか。私に対する神様の圧倒的な愛を体験すれば、自分を主張する喜びが消えるのです。その愛で自分をなくしてしまいたいと願うようになるのです。私は神様のものだと。この飲喜の体験によって起こる「自己否定」が、み言の実体化へつながってゆくのです。ですから、その体験を慕い求めながら、私の全ての目的を、まず、そこに置いて、精誠を尽くす必要があるということです。

所長視点)
本来、自己否定は苦しみが伴うものではなく、真の愛によって自然と自分を否定するなかで成長、復活するようになっていました。いまはそのような時代に入っています

2020年8月7日金曜日

2020/8/7 理想相対

祝福の相対、理想相対とは、お互いが愛の相対として創り合い、お互いを通してのみ天国に行くことができるという唯一の関係です。愛で一つになることで神様の価値を示すことができる永遠の関係です。
相対者は、「私」に対する願いと祈りが込められた貴重な存在ですから、まるで神様が私の完成と永生のために、オーダーメードされた、み旨の実体のような存在とも言えます。
理想相対は、神様から見た理想の相対ですから、私を中心として見ると、何が理想なのか全く分かりません。相対の中に神様を見ることができるかどうかは、相対者の性質や基準にかかっているのではなく、それを見る"私と神様との関係"にかかっています。その関係の基準が、"相対に接したときの基準"になっているのです。(世界家庭 蝶野部長より)

所長視点)
神様を中心とした夫(妻)は、私が相手をどのような視点で見るかに掛かっています。神様が私に与えた理想相対としてみえない部分は、私と神様との関係を深めることで「相対に接したときの基準」が深まり、貴重な存在として永遠の関係として実感できるようになります


2020年8月6日木曜日

2020/8/6 神様の愛で否定されよう

全ての存在は自身を肯定して存在します。否定しては存在できません。しかし、愛の前には自分を否定したがります。それは、その愛を肯定したいからです。その愛によって自分の価値が高まってゆくので、喜んで自分を否定したがるのです。これが本来の自己否定です。
私たちが生活圏で愛の主体の立場に立とうとするとき、自らの愛の主体者が明確ではなく、「誰による私なのか」が確定していなければ、すぐに「自分」が出てきてしまいます。主体者の愛で自分が否定されていないと、私自身を正しく扱えず、私が愛すべき対象の中に、神様が見せたいものを見ることができなくなります。自らの体験の中にある、天のみ意をつかむことができなくなるのです。
神様と私との関係を考えたとき、神様の側が「あなたは私の愛する子だ」とおっしゃっても、私の側で「あなたの愛で創られた私は、あなたのものです」と受けていない限り、「関係」が結べないのです。愛が双方向であれば「関係」と呼ぶことができますが、一方通行では与える側に基準があったとしても、実感が伴わず、愛の目的にも達することができないので、「関係」とは呼べなくなります。

所長視点)
自分が神様のみ言の前に100%心を開いて受け入れることで、私の中の本心が100%発動して「真の愛による自分」の感情が湧いてくるようになっています


2020年8月5日水曜日

2020/8/5 私の扱い方

「信仰の出発」をしたということは、「扱い」が変わったことを意味します。その「扱い」は二つあります。一つは「私(自分自身)の扱い」で、もう一つは「人の扱い」です。これらから信仰基台と実体基台が築かれます。
私が何者であるかが確定されてこそ、私の体験が意味することも決まります。人間は堕落によって天との縦的関係を失い、自分が何者であるかが分からないままに、自らの体験の意味を考えてきました。そのため、答えが出なかったのです。
「神様を知った」ということの本当の意味は、「神様の存在を知った」ことではありません。「"私は私ではなかった”ということを発見した」ということなのです。私は主体ではなく、結果的存在、対象的存在であり、その主体者のものであった、つまり、「神様のものであった」という事実を、私が"受け入れた"ということです。そのとき初めて、私自身を"私のものとしては扱わない"という態度が可能になるのです。このようにして自分が否定されるのです。

所長視点)
自分を神様が見つめるように見つめ、扱うのが「自分中心」から「神様中心」に復活する土台になります

2020年8月4日火曜日

2020/8/4 解放されるべき神様

万民が嘆息圏を抜け出せない限り、父母の立場に立った神様は、嘆息圏内から抜け出すことができません。愛する子女が悩んでいるのに、父母が安らかな立場に立つことはできないのです。そのような立場に神様がいらっしゃるので、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万人に対して自由に愛することのできる解放圏を神様に取り戻してさしあげるべき責任があります。堕落した人によって誤ったので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません(天聖経1・4・3・11)

御言解説)
神様の愛、位置、立場は創造が始まって以降、変わらないですが、愛する我が子が神様を忘れ、神様の息子娘とは思えないほどの堕落圏内にいるゆえに、愛において拘束されている立場に立っている神様です。その神様を解放するには私が本然の神様の息子娘としての立場で神様を愛するようになってこそ、神様を解放することができるのです

2020年8月3日月曜日

2020/8/3 信念と心の土台をもつ

私たちが悟るべきことは、堕落していないアダムとエバに賦与していた、その環境的理念世界に関するものを、いかにして再び自覚するかということです。環境がいくら残忍で、いくら恩讐の悪党たちが反対して闘争が起こっても、これを克服できる信念と思想基準が確定していなければなりません。
ですから、この世界で生きているあるいはみ旨と向き合っている個人は「この世界には私だけが残っており、この世界の問題を解決できるのは私だ」という信念を持たなければなりません。「私」がこの世界を越えて、堕落していない理想的なアダムの理念を私の実体的主体思想として立て、そして決意したその決意が、この死亡世界を超越できる心の土台になっていなければ、み旨の道に行くときに、いつも失敗するようになっているのです (天聖経1・4・3・2)

御言解説)
神様は、私の家庭、社会、国家、世界の問題に対して、解決できる信念、心の土台を与えてくださっているということを自覚する必要があります。「どうしたらいいのか?」と方法論で考えて行動したり、「こうすればいいのにああすればいいのに」と当事者意識をもたずにいれば、いつも失敗してしまいます

2020年8月2日日曜日

2020/8/2 神様の救援摂理

本来、一つのみ旨として立てられた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし、神様は絶対的な権限をもった方なので、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることはできません。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様はやはり神様であり、絶対的なお方なので、本来は天使長である悪魔サタンまでも自然屈服させなければなりません。いてもいないのと同様の立場において、絶対的な神様の権威を立てなければなりません。
善なる神様は、悪なるサタンを先に打つことができません。善なる神様の愛の本質世界に、先に打てる原因、動機がありません。恩讐に対してまでも、ために生きなければなりません。万物のために投入に投入を重ね、ために生き、またために生きる神様の威信とその絶対的な権威は、いくら悪魔が生まれ、反対しても崩れません。そのような立場で、ために生き、またために生きながら来てみると、神様の救援摂理は、このように数千年の歴史を経てくるようになりました。そのようにしながら自然屈服させてきたのです(天聖経1・4・2・8)

所長視点)
真の愛をもった唯一無二、全知全能の神様でしたが、いないもとして扱われ、愛するすべてを奪われ恩讐から愛を要求されてきました。それでも神様の立場にたって愛を注がれてきた神様を誰も知らずに6000年の歴史が流れてきました。その神様を解放するのが私達の立場です

2020年8月1日土曜日

2020/8/1 神様を中心とする生活の足場

皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠の生や世界的な生と関係を結ぶことのできる、生の足場を立てなければなりません。そうでなければ、皆さんの今の生が世界的な生を経て、永遠の生になることができません。このような宇宙的な生を立てるべき人間の先祖アダムとエバが、堕落することによってそれを失ったので、これを再び復帰するために神様が六千年間苦労して来られましたが、神様のこのような苦労の歴史を復帰摂理歴史といいます。(天聖経1・4・2・2)

所長視点)
生とは生活であり生命です。今の生活環境で永遠の関係性、信頼、安心、慕わしさ、愛情、、感謝、成長を感じることが生きる意味です。堕落によって失ってしまったものですが、祝福を通じて私の夫婦に相続されます。祝福を受けたあとは夫婦間で育む努力が必要です。これが神様に対する最高の親孝行です