2020年7月31日金曜日

2020/7/31 人類歴史は復帰歴史

歴史始まって以来、今まで「人類歴史は復帰歴史である」ということを知った人はいませんでした。歴史の背後関係を「復帰」という概念で定義を下したというのは、統一教会が歴史に残した大きな功績です。歴史の根本となるのは神様であり、またその神様が責任を負い、今まで歴史をずっと治めて発展させてこられました。そのため、復帰の使命を担った数多くの個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって歴史は段階的に発展してきました(天聖経1・4・2・4)

御言解説)
今までの歴史、私達の家系、私の人生が「復帰のために神様が導いてきた歴史」であった、ということを知らずに生きてきました。私の人生が神様が導いてきた人生であって、いまも導いている人生であるという視点をもっていまの環境をみつめいくことが何よりも重要です。そう定めたときに見えてくる何かがあります

2020年7月30日木曜日

2020/7/30 神様と共に涙する心

子女は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるのにも関わらず、彼らを指導し、育成するのは非常に困難です。
人間は、神様はいくら泣いても、いくら悲しんでも、見て見ぬふりをします。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びるものを見れば、喜んで笑うと言うのです。
神様は、このような人間を中心として、指導し、開拓の方向を教えてあげようとするので、どれほどご苦労が多いでしょうか。しかし一から百、千、万までために生きようとされる心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、神様が今まで摂理歴史を続けてくることはできなかったというのです(天聖経1・4・1・52)

所長視点)
神様と心が通じないのが堕落の血統だとすれば、復帰は神様と心が通じていくことです。神様が悲しむことを悲しめる心、神様が喜ぶときに喜ぶことのできる心を育むことが復帰摂理の目的であり、神様の願いです

2020年7月29日水曜日

2020/7/29 内的勝利

いくら外的勝利が完結したとしても、内的勝利がここに伴って完結しなければ、一つの全体目的を完成することができないと見るのが原理の観点です。ここで、内的なものが重要か、外的なものが重要かということが問題です。二つのうち、内的なものをより重要視せざるをえません。内的な問題は、神様のための問題であり、外的問題は、人のための問題だからです。このような観点から、私たちは神様のみ旨を重要視せざるを得ません。神様のみ旨は、神様と内的に一つとなった個人を通して家庭を形成し、その家庭を通して内的に一つになった氏族を形成し、その氏族を通して内的に一つになった民族を形成し、その民族を通して内的に一つになった国家を形成して発展させようとするのです。これが神様の計画です
(天聖経1・4・1・31)

所長視点)
外的勝利は、神様が願われるように◯◯をやった、数字や行動を達成した。内的な勝利は心が神様との関係をどれだけ育めたか、になります。
自分のいままでの価値観を越えた親の事情、心情、愛の世界に触れていくなかで心の奥からあふれてくる感情に触れる経験になります

2020年7月28日火曜日

2020/7/28 苦痛の神様

今まで神様は、最後の死の場、最後の涙を流す場、最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てました。このようにしたのは、神様に愛がなくてしたのではありません。そのような場を解消するために、神様も、それ以上の痛みを感じられました。愛する子女が死ぬその瞬間、父母の心は、どれほど苦痛であり、愛する子女が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情は、どれほど痛むでしょうか。自分が死ぬよりも、もっと痛むのです。このような痛み心情を抱え、人類歴史が始まって以降、苦痛を受けてきた神様です。私たちは一代を中心として一度苦痛を越えれば、私たちの責任はすべて終えることができますが、神様は、今まで私たちのたくさんの先祖たちが死の道を行くたびに、涙の道を行くたびに、血と汗を流す道を行くたびに、悲しみと苦痛の道を行くたびに、激しい苦痛を受けておられました(天聖経1・4・1・16)

所長視点)
私に対して真の愛をもって絶対信仰絶対愛絶対服従の道をいかれている神様です。それゆえに痛みを感じたとしても真の愛をもって臨まれる神様の痛みと事情を知らずに生きてきた私達でした

2020年7月27日月曜日

2020/7/27 かわいそうな神様

神様は、無限にかわいそうなお方です。罪悪の子女を抱き、「愛する息子だ」と言わざるを得ない不自由な立場にある神様は、罪悪の息子、娘が生きているこの地上に来られて、引き裂かれ、傷つけられ、追われる神様です。神様は痛哭していらっしゃいます。神様の心情にはずたずたに裂けた傷があります。民族が倒れて新しい民族がつくられるたびに傷を受けられ、歴史のどの一ページにも、例外なく神様の心情の曲折が隠れているというのです。(天聖経1・4・1・12)

所長視点)
地上にも、かわいそうな方はたくさんいますが、お父様が出会った神様は「無限にかわいそうな方」でした。私達に誇れることがあるとすれば「かわいそうな神様」を受け入れ、同情し、なんとかしてあげたいという思いをもっているということだと思います。「悲しい神様の友になりたい」とみ旨の道を出発し、生涯困難な道を歩まれたお父様。「私一代で復帰摂理を終わらせます」と歩まれているお母様です

2020年7月26日日曜日

2020/7/26 悲しみの神様

神様は軟禁状態にあります。息子を失った、永遠のひとり子である息子、娘を失った父母の苦痛を抱いて生きる神様です。恨の神様です。今まで涙を流し続け、胸をたたきながら救援歴史のために人間のうしろについていきながら、数限りなく死に遭遇し、ありとあらゆることを見ても、耐えに耐えた神様です。その胸に、釘が打ち込まれているとすれば、世界を覆って余りある釘が打ち込まれているのであり、恨があるとすれば、この世の中にない恨を抱いてきたと言うのです。これが神様です (天聖経1・4・1・10)

所長視点)
堕落の結果、真の愛をもった全知全能の神様が、いまは囚われの神様となっています。それゆえに神様が分からなくなり、真の愛が分からなくなり、神様を傷つけるようなことを平気でいえる私となってしまいました。その神様を解放された方がご父母様です

2020年7月25日土曜日

2020/7/25 創造の目的

神様は、絶対者であるにもかかわらず、何が慕わしくて創造したのでしょうか。黄金や知識も必要ない全知全能の神様が、備えていないものがない神様が、何が必要で人を造ったのでしょうか。創造の根本動機とは何でしょうか。それは権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛することができません。ですから天地創造の動機は愛です。 (天聖経1・3・3・10)

所長視点)
私がこの世に産まれてきた目的が愛であるならば、愛を中心として生きるのが人生の目的です。 神の愛は無限に高まっていく愛です。飽きることのない慕わしさが育まれていく愛です。人間が問題を抱えるときは、愛のレベルをあげる必要のあるときです。どこがで、相手のせい、人のせい、神様のせい、自分のせい にしているところに気づき、受け入れていくなかで育まれていきます

2020年7月23日木曜日

2020/7/23 未完成の神様

神様が最高に喜ぶためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、お金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありません。その方は、全知全能のお方であり、創造の能力をもっていらっしゃるので、その方には欠如したものがありません。しかし神様にも、たった一つ必要なものがあります。神様にも愛が必要です。愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。このような点から見るとき、愛のために宇宙を創造したと結論づけることができます 
(天聖経1・3・3・5)

所長視点)
神様の真の愛の相対として存在しているのが「私」です。神様が「私」を通じて真の愛を現すことができ、「私」が神様の真の愛に満たされた幸せを感じることができるときが今の時です。そのために必要な内容としていまの環境があります。いままでの価値観でみてみると理解しがたいことも、その奥には真の愛に満たされるヒントが隠されています

2020年7月22日水曜日

2020/7/22 本心との対話

私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。皆さんが神霊的な世界に入って、「神様!」と言えば、心の中から「どうした!」と答える体験をして、初めて分かるようになります。そのように尋ねれば、天から答えが来るのではなく「私」の心から答えが来ます。本来、アダムとエバが堕落しなければ、神様がアダムとエバの本心の奥深くにいらっしゃって、アダムを導くのです。ですから聖書を見ると「アダムが名をつけた通りになった」と言ったのです (天聖経1・3・2・20)

所長視点)
本心にいらっしゃる神様がわからなくなってしまったのでが堕落です。私達の心が サタンの拘束をうけ、神様がわからない立場で人生を歩まなければならなかったため、考え方の習慣性、こだわりができました。神様が見る視点でものごとがみえず、自分の考えの範囲の中でしか判断できなかったのが今までの人生です。本心との対話を重ねていくことが神様との関係を取り戻す道です

2020年7月21日火曜日

2020/7/21 神様が住みたい場所

神様は、無形の神様なので、どこでも通じることができます。ですから、どこでも行けないところがありません。すべて通じるというのです
それでは、神様は、どこで暮らすのでしょうか。神様が暮らす家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性格の心情がとどまり、女性の心には神様の女性格の心情が入って暮らすというのです。したがって、本来の人類の先祖であるアダムとエバは、見える神様です。ですから、アダムが名前をつければそのようになり、アダムの願いはかなわないことがなかったということです (天聖経1・3・2・18)

御言解説)
どこにでもいける神様がとどまりたい場所が、わたしたちの心の真ん中である本心です。それが意識しないと忘れてしまうほど、心の中心があいまいになってしまっています。真の愛の根源であり、全知全能の神様につながっていくところに、すべての願いがかなっていくのです

2020年7月20日月曜日

2020//7/20 本心の声

私たちが行くべきただ一つの道は、どこにあるのでしょうか。心の声にあるのです。ですから、善なる心をどのようにして外形的な版図に広げていくかということは、天国を所有でき、最も善で、最も貴いものを所有できる基盤を築くという問題に直結しているのです。これを一日の生活哲学として、一日一日の生活目標として立てて、闘争していくことが、社会や民族、または国家に影響を与えるよりもっと貴いことを、皆さんは知らなければなりません (後天時代の生活信仰)

御言解説)
私たちがいくべき道は本心が知っています。いままで私達が認識してきた心の核心的な部分が本心です。常に自分の本心に尋ねる生活をすること、本心の声に耳を傾けることが重要です。特に「なぜこんなことが起こるのだろう…」というときは、深く本心の声に耳を傾けてみてください

2020年7月19日日曜日

2020/7/19 愛の原則

完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けてこそ、完全に返すのです。それを受ける前に返し始めれば、安全なものは戻ってきません。それが愛を中心とした授受作用、原理原則を中心とした宇宙の原則です。(天聖経1・3・1・24)

御言解説)
神様からの父母の愛で愛されていることを感じるようになっていくことで、真の愛が自分から流れていくようになります。自分のこだわり、自分の人生観、自分が執着している分、絶対的な神様の愛が入ってきません。深く広く、神様の前に心が開かれた分、神様の真の愛が全身に染みてきます。その結果、自然と感謝、感動、喜びが湧いてきます。
「本心は第二の神様」ですから、神様の真の愛は、自分の本心から流れてくるので、神様に心が開いてない=自分の本心の動きに関心がいってない、ことになります

2020年7月18日土曜日

2020/7/18 創造の原則

万物を創造するということは、自分の本質を取り出すことです。結局はエネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の投入を意味するのです。投入するのです。対象を創造する理念の世界は愛によってなされたので、そのみ旨を成し遂げるために神様は投入されたのです。
投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に結実させるためです。ですから、愛で造りました。それで、投入して神様が願うことを感じるのではなく、満足を感じることができたのです。それが原則になることによって、愛の伝統においては父母の愛の本質が残りました。自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原則です (天聖経1・3・1・19)

所長視点)
ために生きるとは、相手が喜ぶことをしてあげる、ことから始まって相手の立場で物事を見つめ、考え、感じることが本質です。イメージ的には「自分の靴を脱ぎ、相手の靴を履く」「相手の目玉で物事を見つめる」ことです。完全に自分を離れなければ、相手の立場には立てません。創造というのは生命を吹き込むことです。自分の生命を相手の中に捧げる人生が父母の愛であり、神様の創造の世界です

2020年7月17日金曜日

2020/7/17 唯一無二の価値

神様が天地万物を創造されるとき、なぜ人間を造ったのでしょうか。相対がいない神様としては刺激を受けることができないので、相対を造って理想の愛と生命と希望の刺激を感じるために造りました。聖書で見るように、神様が人間を作るとき「おい!人よ、現れる」と言って簡単に造ったのではありません。神様は、あらゆる生命と愛と希望を懸けて人間を造りました。結局、神様と人間の関係においては、投入という言葉、無条件投入という言葉、全体投入という言葉を語ることができます。ここから、神様が真の愛を成すための方向性を探ることができます。
相対に100%投入したのです。投入する過程は、神様自体の消耗です。しかし、完全投入したという日には、問題が異なります。100%投入して完成する日には、百を投入したものは百のものが完成して、そこに相対的な愛がプラスされて神様に帰ってくるというのです。ここに相対的な愛の権限、相対的な特権の価値、自分が投入したすべての内容がプラスされて登場するようになるのです。そうすることで、神様は初めて刺激的な幸福を感じられるというのです (天聖経1・3・1・14)

御言解説)
私という存在は、神様がすべてを捧げた結果産まれた存在です。出産と同じです。十月十日育んで出産のときにはすべてを捧げて産み出すお母さんの姿は、神様の創造と一緒です。そのようにして産み出したした、かけがえのない存在に出産のときに捧げた心情以上の愛情を捧げ続けられてきた存在が私です。神様の視点でみるとき、「私」という存在はかけがえのない価値をもった存在なのです。その視点で自分自身を見つめることが重要です

2020年7月16日木曜日

2020/7/16 体を主管する

私たちは、二十四時間を治めなければなりません。時間を治めなければなりません。愛は、時間圏を治める立場に立たなければならないのです。その次には、行動を治めなければなりません。愛は行動を治める以上の立場に立たなければなりません。時間を治めなさいという言葉は、睡眠を治めることです。行動を治めなさいというのは、御飯を食べることなど、あらゆる欲を治めることです。そして情欲を治めなければなりません。愛は、その上にあります。その次には、物欲を治めなければならないのです (天聖経 8・2・5・9)

所長視点)
時間、行動、情欲、物欲を愛で治めるというは、我慢することではなく、愛を先だてるということです。まず、24時間をどのような心で過ごしているのか?行動しているのか?常に私の関心が心に向く必要があります。そして神様の視点と自分の視点をあわせて行動することで、私の心の中に神様を見つける。それが愛で治める、ということになります

2020年7月15日水曜日

2020/7/15 私自身

神様が私たちの心の中心ならば、その神様が望む目標と、私たちの心が望む目標とが一致しなければなりません。また、心と体がひとつになるために、体がこの地の理想的な基準と一致しなければならず、心は神様が目標とする方向と一致しなければなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理想世界は必ず訪れるものなので、「私」の体が生活において善の理念世界と接する関係をもっていなければなりません。心の基準が神様の基準と分かれるとき、苦衷が生じるようになり、体の生活基準が世界的な理念と相反するとき、また、苦衷が生じるのです。それでは、どこから是正するのでしょうか。それは相対圏ではなく、私自身にかかっています

天聖経8・2・4・13

所長視点)
神様と私の心の方向性が一致しているかどうかは、私をとりまく人間関係をみればチェックできます。神様の願いと私の体の方向性が一致しているかどうかは、私をとりまく生活環境をみれば分かります。それが私の心と体の映し鏡になっています

2020年7月13日月曜日

2020/7/13 神様を中心とする生活⑤

「神様と接触する瞬間」
天は、生命の主体あり、理念の主体であり、愛の主体であって、私たちの心と体の主体です。ですから、私が天と接触する瞬間には、私の体は自分の体ではありません。私の心は自分の心ではなく、私の心情は自分の心情ではないのです。私の理念は自分の理念ではありません。その時こそ、神様を身代わりした体になるので、万物の主人公になるのです。その時に、私の心が神様と同じ心になるので、私の心は神様を身代わりすることができるのです。その時に初めて私の生命は、万宇宙を動かせる生命の権限を持つのです。私の心情は、神様の心情を身代わりして現れることができ、私の理念であり、父の理念だというのです。それでこそ私たちの心的な願いのすべての目的が集結するのです
(天聖経8・2・4・10)

御言解説)
私の今までの人生で、自然と心から感謝と感動があふれたときが一度や二度はあったと思います。大自然に触れたときや、人の大きな愛にふれたときの感動です。自分の考え方や価値観が大きく影響されたような感動的な出来事や出会いです。いつまでもその思いに浸っていたいと思い、自然と涙が流れる心の状態。そのときが天と接触している瞬間です。
生活の関心が、考えや行動することになってしまっていると、日々の生活に追わるようになり、妥協、打算、惰性的に生きるようになってしまいがちです。1日を1週間を振り返ったとき、感謝と感動で涙があふれ、心が震えたときを思い出せないとすれば、心よりも体が中心となって生きているということに気づく必要があります。

2020年7月12日日曜日

2020/7/12 神様を中心とする生活④

神様は人の心を治め、人の心は人の体を治め、人の体は万物を治める
「私」一人には、神様が入っていて、家が入っていて、人が入っています。心が主体となり、体は対象になります。心は、体の中心になるので、意思がなければならず、観念がなければならず、主張がなければなりません。これが一つに一致した人を人格者といいます。心の命令通りに体が動く良心的な人を、人格者というのです。自分の一身を思い通りにできる人が人格者です。ですから、心が中心です。心は神様の代身であり、体は人の代身です。神様は人の心を治め、人の心は人の体を治め、人の体は万物を治めるのです
(天聖経8・2・4・5)

所長視点)
本心は第二の神様なので、心の中心が「本心」であり、本心を中心とした心が、体の主体になることですべての問題は解決します。体はいま生きている事情、課題、問題、人間関係、環境を代表しています。それを頭で考え、いままでの経験の中で頑張ってなんとかしようとしても限界があります。これは体が主体になっている状態です。心が弱っていると体に引っ張られてしまいます。心の感じていることに関心をむけ、気づいていくこと、その先にある本心の心情の世界、父母の愛の世界につながることで心は元気になり、体の主体になれます。この状態が人格者です

2020年7月11日土曜日

2020/7/11 神様を中心とする生活③

心は、宇宙の神様を身代わりしているので、父母の中の父母です。師の中の師であり、主人の中の主人です。ですから、純潔さを持っている「私」の心は、世の中の母よりもっと近い母であり、父母です。世の中のどんなに立派な先生よりも、私に一番近い先生です。また世の中のどんな主人よりも、自分の僕(しもべ)たちを正しく導いてくれる主人の立場に立っているのが心なのです

天聖経8・2・4・3


御言解説)
純潔さをもっている心というのは「本心」で「本心は第二の神様」です。本心はいつでも私を幸せにする方向に導こうとしてくれる父母であり、師匠、先生、主人です。本心の声に耳を傾ける生活が神様を中心とする生活であり、本来の私の生き方でした。
本心が何を感じているのか、より今までの自分の考えや過去の経験で判断するのを先立てていくと本心は傷つくので、それを繰り返すと本心の声は聞こえづらくなってしまいます。
いま本心が何を感じてどこに自分を導こうとしているのか、そして受け入れてみましょう


2020年7月10日金曜日

2020/7/10 心は父母の中の父母

私たちがほかの人と和合できない心をもっているとすれば、私たちは、その心を動かして、すべての人に100%合わせることができる心の修練をしなければなりません。そうでなければ、サタンは終わりの日に皆さんを審判台の上に立てておき「誰それよ、お前はこのような不備な条件があるではないか」と言って、そのようにできない点を揚げて讒訴するのです

天聖経8・2・4・2


所長視点)
和合した状態は心情が通じた状態です。事情、願いが心で感じ合う状態になります。夫婦、家族、前後左右の人と心情が通じ合う関係性を築くことが私達の責任分担であり、そこに幸せがあります。
終わりの日は真の父母が来られた今です。今まで先祖が和合した関係性を築くことが出来ずもつれ、恨みになったすべての関係性を整理し、愛溢れる関係性とすることができる時代が来ました。できる時代であるからこそ、それをさせないようにサタンが私達の先祖に恨みのある霊をつかって、本来の情的関係を分からなくして恨みを晴らそうとする時代でもあります

2020年7月9日木曜日

2020/7/9 神様を中心にする生活①

心は永遠を伴い、体は一生を伴います。心が生涯を調整して現れ、体は生活を調整して現れます。生活と生涯は異なります。生涯とは一生について語ることであり、生活とは一日について語ることです。このように、私たちの心と体は、それ自体が異なります。人間は、心が生涯を主管し、体が生活を主管するようになっています。ですから、一日一日の生活で食べなければ、体は死ぬようになります。しかし、心は食べるには食べますが、生涯の観点から外れる立場で食べてはいけないというのです。このような意味から見るとき、心が望む観念がより大きいというのです

天聖経8・2・4・1


所長視点 )
心が求めるもとの身体が求めるものが違います。今週を振り返ったとき、生涯(霊界にいく準備として真の愛を育む人生)を求めて行動することが多かったのか、生活の事情や問題解決に追われて行動することが多かったのか、確認する必要があります。心を優先として生きるとき、生きて天国生活をすることになり、生活の事情や問題解決を優先して生きる生活を地獄といいます。
心を主体にするには、まず自分の心がいまなにを感じ、何を求めているのか、静観することが重要です。生活するので心が一杯で見えなかった心の深い部分まで掘り下げていくなかで、心が解放され心の中心におられる神様により深くつながることができます

2020年7月8日水曜日

2020/7/8 生命の根本

皆さんが神様の愛をもつためには、神様の生命を根本にしなければなりません。そのようにしなければ、神様の愛が受けられません。神様の生命をもつようになれば、恩恵があります。神様の生命を土台にする人にならなければ、神様の愛を受けることができません。皆さんは、その恩恵を受けなければならないのです。恩恵の表示は、幻想や夢のようなものによって現れます。皆さんは、実体の神様の立場にある真の父母が慕わしくて、泣かなければなりません。しきりに会いたいと思わなければなりません。ご飯を一膳炊いておき、水を一杯くんでおいて侍りたいと思わなければなりません。そのような、切実な心を持たなければなりません。涙が先立つ心情をもっていればよいのです。そうすれば、先生を中心として、皆さんの心情一致がなされ、先生と共に呼吸することによって、先生の人格基準と、その背景となる先生の過去と、過去に絡まった事情がどうなっているのかを知るようになり、さらにはそれを相続し、引き継ぐことができます

天聖経2・4・5・13


所長視点)
神様の生命を根本にするには、自分の生命が神様によって与えられ、神様によって生かされ、神様と共に生きてきた人生であったということを受け入れることです。悲しいことも辛いことも楽しいことも嬉しいことも神様と共に歩んできたという事実を知り、まるごと受け入れるときに神様の愛が溢れてきます。そうすると真の父母様が慕わしく思えてきます。そこから神様が宿る人格が整っていくのです

2020年7月7日火曜日

2020/7/7 心情の相続 

神様が願われた真の父母であり、人類が望んだ真の父母であり、天地がの待ち望んだ真の父母は、歴史的な解怨をして神様の心情的な偉業を相続するために、この地上へ来られた方です。このような真の父母を再び相続しなければならないのが、私たちであり「私」です。このような父母を相続するためには、神様の悲しみはすべて知らなくても、真の父母の悲しみの一面を体験しなければなりません。新たに地を探すために天がしてきた苦労も、もちろん知らなければなりませんが、それはすべて知らなくても、地上で苦労した真の父母の心情がどのようなものだということと、悲しい内容がどのようなものだということを、ある一面でも知らなければなりせん

天聖経2・4・5・12


所長視点)
真の父母の子女になるのが「祝福」です。受けて終わりではなく、真の父母様が神様をどのように見つめ、人類の問題もどのようにみつめ、解決しようとし、私達をどのようにみつめているかを知るのが自叙伝であり、 原理講論です。だた読むのではなく、父母様の視点を理解し、自分もその視点で見つめ、行動しようとするとき感じる感情が真の父母様の心情と通じるのです

2020年7月6日月曜日

2020/7/6 サタンに勝利する

父母の心情を知るためには、一体ということをどのようにして感じるかが大きな問題です。サタンに勝利するまでは、それは絶対にできません。体恤が訪れないというのです。ですから、先生が、発電所と送電所を作っておきました。個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的、天宙的、神様まで、このような塔を作っておきました。今、心情の電線を架けなければなりません。これは、先生がするのではなく、神様がしてくださるのでもありません。皆さんがしなければなりません

天聖経2・4・5・10


所長視点)
心情一体化するためにはサタン分立が必要です。そのためには自分の中のどこをサタンが握っているのか気づく必要があります。サタンは霊的な存在ですから、自分の感情のどこを握っているか。自分では分かりません。堕落性に気づくには、自分と同じ堕落性をもった人をみれば気づけます。自分の気持ちが通じない、ムカッとさせる人がサタンが握っている堕落性を教えてくれます

2020年7月5日日曜日

2020/7/5 神様の悲しみ

皆さんは、神様の悲しみを知らなければならず、神様の悲しみが大きければ大きいほど、私たちを祝福したいと思う心が切実だということを知らなければなりません。復帰過程にいる皆さんは、まず真の父母に侍り、その次に、再びその関係を連結して、天上世界まで収拾しなければなりません。このような立場で、皆さんに天地を相続させてあげ、宇宙を相続させてあげ、万民を相続させてあげたいと思うのが、神様の心情です。したがって、皆さんは、神様の代わりに、真の父母の代わりに、真の息子、娘の使命を果たして、神様のみ前に立てられる真の子女の栄光の基盤を備え、神様が「忠臣だ」だと言える基盤を備えなければなりません

天聖経2・4・5・9


所長視点)
神様の悲しみを知るには、神様の立場を知り、その立場でいま起こっている出来事、環境、人間関係を見つめたときに感じるその感情が神様の心情に通じます。神様の立場に立ったとき感じる言うにいえない感情を受け入れ、御言で整理し、自分の中の堕落性に気づいていくながで自分の心を解放していくのが、私達の責任分担です

2020年7月4日土曜日

2020/7/4 不条理の道

皆さんが、真の父母の心情と神様の愛とその心情をどのように体恤するのですか。その境地にどのように入るかが問題です。そのようにするには、堕落していないアダムとエバにならなければなりません。サタンが讒訴できてはいけません。それでは、サタン世界でどのように解放されるのですか。サタンと闘って勝たなければなりません。そうするには、どれほど苦労し、どれほど苦しまなければなりませんか。ヤコブが十回騙され、モーセも十回騙され、イエスキリストもそのように欺かれました。先生も同じです。それを克服していかなければなりません。そのときに、神様の心情を知るようになるのです。父母様の心情を知るようになるのです。そうでなければ、絶対に分からず、そうでなければサタンが離れないのです。サタンに勝利できない限り、父母の心情を知ることができず、神様の心情を知ることができません

天聖経2・4・5・8


所長視点)
父母の心情、神様の心情を知るにはサタン分立する必要があります。そのためには身悶えしながらも、不条理の道を行きながらも神様を子女としての位置を離れずにいくなかでサタンが離れていきます。サタンは愛の減少感を越えることができず、不条理の道を越えることができないので、その道をいくときサタンは離れざるおえないのです

2020年7月3日金曜日

2020/7/3 心情

皆さんは心情を合わせもってこそ、天の勇士になることができます。心情を除いてはなれません。心情がなければ、人格は出てこず、心情を通じた人格が出てこなければ、心情を通じてた真理も出てこず、心情を通じた真理が出てこなければ、理想が出てきません。皆さんの理想は何ですか。真の父母です。統一教会は、歴史が求めてきた中心である真の父母に侍るところです。時代が要求する中心である真の父母に侍るところです。未来の起源になることができる真の父母を「私」が相続することができるのです。したがって、私は歴史的な実です。私は時代的な中心です。未来の起源になり、先祖になるのですが、真の父母の心情と一致できる関係も結んでこそ、そのようになるのです。このような心を持ってこのような祈りをすれば、天の前に恥ずかしくありません

天聖経2・4・5・6


所長視点)
心情とは「愛することを通じて喜びを得たいという情的衝動」です。自分の中にこの「情的衝動」が滾っていることに気づくこと。それに気づけば人格が整い、情的方向性が定まり、その先に見えてくるのが「真の父母」になります。私達は、いきなり「真の父母に侍る」時代を迎えてしまったので、かえって自分の中の「心情」の重要性が曖昧になってしまうことがありますが、心情なくして何も始まりません。心情を見えなくするのが恨霊の働きです

2020年7月2日木曜日

2020/7/2 真の父母の理念

神様が、各時代に、私たちの先祖を訪ねてきて相続させてあげたいと思われた心情を中心とする偉業を、今までアダム家庭から歴史的な終末まで連結し、一つの勝利的な心情の実体として天地に立てるものが、天地、あるいは全人類が願う再臨の理想、すなわち真の父母の理念です。したがって、この真の父母を中心として、真の父母を完全に皆さんが相続することができ、真の父母を皆さんの父母として侍ることができ、真の父母の解怨を皆さんの解怨として感じる位置に立たなければ、天の祝福、あるいは相続を受けることはできません

天聖経2・4・5・3


所長視点)
真の父母の理念を現したのが「家庭盟誓」です。「家庭盟誓」を唱和するときが真の父母の理念と共鳴しているときです。書写するとき訓読をするときも、頭で理解する時間でもありますが、もっと重要なのは真の父母の理念と共鳴することです

2020年7月1日水曜日

2020/7/1 心情一致

神様のみ旨を真の父母が相続し、真の父母のみ旨を皆さんが相続して、その伝統的な思想を失ってはなりません。その伝統的な思想とは何でしょうか。人間が恩讐サタンの血統を受けて生まれたので、この恩讐サタンの血統を除去したのち、神様を中心として、真の父母を中心とする血統を復帰しなければなりません。そのためには、神様と心情的に一致しなければなりません。心情的な一致を基盤にして、天の血統を受け、神様を根とする木の枝になり、葉になり、神様の代身の実体となって、サタンを屈服させる絶対的な基準を、地上に立てておかなければなりません。そうしてこそ、復帰の歴史が推進されていくのです。
神様は、決して復帰歴史を放棄されません。皆さんが使命を果たせないからといって、神様は、この家を放棄されないのです

天聖経2・4・5・2


所長視点)
血統を除去する=祝福を受けたのち、神様と心情一致していくことで地上にサタン不可侵圏が生まれます。心情一致とは神様の立場をまるごと受け入れることで、神様の事情を理解し、その立場で歩まれてきた神様を思い、その立場で愛を注いできた神様の役割の一旦を担うことで神様の心情の触れることを心情復帰といいます